アメデオ・モディリアーニ:エコール・ド・パリと肖像画

(Public Domain /‘Jean Hebuterne with large hat(1918)’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

アメデオ・モディリアーニはモンパルナスで活躍したエコール・ド・パリを代表する画家のひとりです。その独特の肖像画は近代絵画の名作として今も高い人気を誇っています。

アメデオ・モディリアーニとは

(Public Domain /‘Amedeo Modigliani’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

アメデオ・モディリアーニは1884年、トスカーナ地方のリヴォルノ、ローマ街33番地で生まれました。両親はともにユダヤ系のイタリア人で、林業や銀鉱を経営していたものの、モディリアーニが生まれた年に破綻しています。当時の法律では妊婦や生まれたばかりの子どもを持つ母親の財産を押収してはならないという決まりがあり、モディリアーニが生まれたことで一家は財産を守ることができました。

父フランミオは旅行をすることが多かったため、モディリアーニは祖父や母とともに過ごすことの多い幼少時代を送りました。母方は代々学術に携わってきた家系で、多数の言語を流ちょうに使いこなし、ユダヤの古文書の管理について重要な役割を果たしていたと言われています。そうした血筋に引いている祖父イサーク・ガルシンも博学で、よくモディリアーニに芸術や哲学の話を聞かせてやっていました。

また母ユージニーは教育熱心で、美術に興味を持ちドローイングや絵画を描くようになっていたモディリアーニの才能を伸ばそうとしました。ナポリやカプリ島、ローマ、アマルフィといった北イタリア各地にモディリアーニを連れ出しており、モディリアーニが11歳の時の彼女の日記には以下のように記されています。

「この子の性格はまだ十分形成されていないので、今自分の意見をいえるところに来ていないが、その態度は知能はあるが甘やかされた子供のそれである。このサナギの中に何があるのか、もう少し時期がたてば見えてくるだろう。あるいは芸術家?」

出典:アメデオ・モディリアーニ

この記述から、母親は早くからモディリアーニの芸術家としての才能を見抜いていたことが伺えます。モディリアーニは11歳の時に強膜炎にかかり、14歳の時には腸チフス、16歳の時には結核になってしまいますが、その時でさえ芸術への熱は冷めることはありませんでした。それを見た母親は彼の芸術家になるという夢を叶えるために尽力し、リヴォルノの有名な画家グリエルモ・ミケーリのもとで学ばせることを約束しました。

モディリアーニはミケーリのアトリエに通い始めると、ルウェリン・ロイドやジュリオ・シェザーレ・ヴィニジオらと出会い、彼らにも影響を受けつつモディリアーニ自身の芸術の基本が形成されていきます。学校では主に19世紀イタリア美術を学びの基本としており、初期のモディリアーニの作品にはパリの芸術家の影響が大きく見られます。モディリアーニは熱心に学んでいたものの、16歳のときには肺結核を発症。強制的に休学させられることになってしまいます。

(Public Domain /‘Die Jüdin(1908)’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Der chellist(1909)’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

翌年からは療養のため母親とナポリ、カプリ、アマルフィ、ローマ、フィレンツゥエ、ヴェネツィアを旅行し、14世紀シエナ派のティーノ・ディ・カマイーノの彫刻に強い感銘を受けるなど、美術学校を離れても芸術への強い思いが途切れることはなく、フィレンツェの裸体画教室、そしてヴェネツィアの美術学校に入学し、ついに1906年にはパリに移ることになります。

(Public Domain /‘Modigliani, Picasso and André Salmon, Paris in 1916.’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Modigliani, Picasso and André Salmon, Paris in 1916.’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

パリに移ると、アカデミー・コラロッシに入学し、モンマルトルのコランクールにアトリエを借りて活動をはじめます。モディリアーニの住まいは、「洗濯船」という前衛的な表現を目指す画家たちの住むアパート兼アトリエの近くにあったことから、モディリアーニはパブロ・ピカソやギヨーム・アポリネール、ディエゴ・リベラらと知り合い、交流を深めていきました。

(Public Domain /‘Head (1911)’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Woman’s Head(1912)’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIACOMMONS)

1909年になるとモンパルナスに移り、ルーマニア出身の彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと出会います。ブランクーシは《空間の鳥》をはじめとしたミニマルアートの先駆的な彫刻を制作していた彫刻家で、モディリアーニはブランクーシの影響もあってかこのころ彫刻に専念、アフリカやオセアニア、アジア、中世ヨーロッパの民族美術に影響を受けた彫刻作品を制作していきます。しかし資金不足や健康状態の悪化により、以降は絵画以外の制作は断念しました。

(Public Domain /‘Nu couché(1917)’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1914年には画商ポール・ギヨームと知り合い、1916年にはポーランド人の画商レオポルド・ズボロフスキーと契約を結び、本格的に画業を始めます。レオポルドはモディリアーニにアパートを貸し、そこをスタジオとして利用することを許してくれた人物でもありました。

(Public Domain /‘Jeanne Hébuterne1918’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そして1917年、モディリアーニは藤田嗣治のモデルでもあったジャンヌ・エビュテルヌと出会います。19歳の美大生だったジャンヌはモディリアーニの芸術のとりことなり、2人は同棲をはじめます。ジャンヌは厳格なカトリックを信仰する保守的なブルジョワの家庭に育ったため、モディリアーニとの交際には家族から強い反発を受けますが、二人の関係はますます親密なものになっていきました。1918年になるとモディリアーニはジャンヌを連れてフランス南部のニースやカーニュ=シュル=メールを旅行、11月には長女ジャンヌが生まれました。

一方、制作活動を続けていく中で1919年には生涯で唯一の個展が開催されます。しかし、展示会の中にはヌード画も展示されていたため、警察によって強制的に中止に追い込まれてしまいます。

(Public Domain /‘Grave of Amedeo Modigliani’byZserghei. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ジャンヌはその後再び妊娠しましたが、1920年1月24日には結核性の髄膜炎と薬物乱用の合併症でモディリアーニが死去。ジャンヌはすっかり錯乱状態になり、5階建ての集合住宅の窓から投身自殺をしてしまいます。ジャンヌの遺族はこの自殺をモディリアーニの責任であるとして、二人は別々の場所に埋葬されていたものの、10年経ってジャンヌの遺体はモディリアーニの墓のそばに埋葬しなおされました。現在2人はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されています。

モディリアーニの作品

(Public Domain /‘Reclining Nude’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

モディリアーニの代表作の多くは1916年から1919年に制作されたもので、顔と首が異様に長く、目には瞳が描きこまれていないのが特長です。モディリアーニはモデルの心のありようを肖像画に描こうとしたといわれており、それぞれの作品に描かれた人物は無言ながらもどこか訴えかけるかのようです。

《自画像》1919年

(Public Domain /‘Self-portrait.’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

この作品は1919年に描かれたもので、病気に冒されつつあるモディリアーニ自身の自画像です。とてもシンプルな構成で描かれており、彼の本質が表現されています。くぼんだ頬と閉じられた唇は、結核と戦う彼の表情として自画像の中でよく用いられました。

《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》1918年

(Public Domain /‘Portrait of Jeanne Hébuterne’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品はモディリアーニの内縁の妻であったジャンヌ・エビュテルヌを描いたもので、強い意志を秘めた瞳とスリムな身体が表現されています。ジャンヌの表情は落ち着いており、小首をかしげた様子は美しく、そして柔らかみを含ませて描かれています。

モディリアーニはジャンヌをモデルとした作品を多数描いていますが、どの作品においてもジャンヌの瞳には画家に対する優しさが感じられます。悲劇の最期を遂げる2人ですが、二人が過ごした短い幸せな時間を感じられる作品です。

(Public Domain /‘Portrait of Jeanne Hébuterne’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Portrait of Jeanne Hébuterne in profile’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

おわりに

(Public Domain /‘Jeanne Hébuterne’by Amedeo Modigliani. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

モディリアーニは幼少時から病に悩まされていたものの、芸術への情熱から画家となり、多数の傑作を残しました。モディリアーニの作品は顔や首が長くのばされており、瞳が描きこまれていないなど、これまでの肖像画からはあまりにかけはなれたものでした。しかしそこにはモデルの心のありようが表現されており、特に妻ジャンヌの肖像画からは二人の強い結びつきが感じられます。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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