藤田嗣治:乳白色の肌

(Public Domain /‘Tsuguharu Foujita’by Jean Agélou (1878–1921). Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

藤田嗣治は日本の東京に生まれた20世紀を代表する画家です。独自の「乳白色の肌」と呼ばれた裸婦像は特に絶賛され、エコール・ド・パリの代表的な画家として活躍しました。

藤田嗣治とは

藤田嗣治は1886年日本の東京に4人兄弟の末っ子として生まれました。父親は軍医として台湾や朝鮮などに赴任した高官、兄弟も大学教授や軍医を務めるものが多く、エリートの家系でした。そんな中藤田は幼少のころから絵に興味を持つようになり、1905年に高等師範附属中学校を卒業するころには画家としてフランスに留学したいという希望を持つようになります。

1905年になると現在の東京芸術大学の前身にあたる東京美術学校西洋画科に入学します。このころの日本画壇ではフランス留学から帰国した画家たちが活躍しており、印象派や写実主義がもてはやされていました。藤田はそうした画風に親しむことができず、成績は中の下であったといわれています。1910年に東京美術学校を卒業するものの、卒業制作として描いた自画像は当時の画壇において避けられていた黒が多用されており、反発心を表したものでした。その後1912年には結婚し、新宿にアトリエを構えますが、藤田は妻を置いて単身パリに向かってしまいます。

(Public Domain /‘Tsuguharou Foujita in his atelier in 1918’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1913年、パリのモンパルナスに住まいを構えた藤田は、アメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合い、彼らを通じてパブロ・ピカソやモイス・キスリングと交流し、パリに渡っていた川島理一郎や島崎藤村らとも知り合うようになり、藤田はフランス社交界で花形になっていきました。

当時のパリにおいて日本でもてはやされていた印象派はすでに過去のものとなっており、キュビスムやシュールレアリスム、素朴派などが新しい絵画として台頭していました。東京美術学校で印象派こそが洋画であると教えられてきた藤田はこれに大きな衝撃を受け、新しい描き方に夢中になっていきます。

第一次世界大戦がはじまると、日本からの送金が途絶えるようになり、また戦時下ということもあって絵が売れず、藤田の生活は困窮を極めていきました。寒さのあまりに作品を燃やして暖を取ったこともあったといいます。戦争が終局に向かいだすと徐々に絵が売れるようになり、1917年6月には初めての個展をひらくことになります。1918年には終戦を迎え、パリは戦後の好景気にわいていました。藤田は個展で高評価を受けたこともあって、新進気鋭の芸術家として活躍していくことになります。

(Public Domain /‘Alice Prin’by Julien Mandel. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

このころからマン・レイの恋人であったモンパルナスのキキと知り合っており、1920年のサロン・ドートンヌではキキをモデルにした裸婦像を出品します。鉄線描(一定の太さの硬い線)で輪郭を描き、乳白色の透き通るような質感を表現した裸婦像は批評家を魅了していきます。なかでも1922年の《寝室の裸婦キキ》と題された作品は8000フラン以上で買い取られるほどでした。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られ、藤田は画家としての地位を確固としていきました。

(Public Domain /‘Fujita Tsuguharu, 1942.’. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

その後1933年には南アメリカから日本に帰国、1938年には小磯良平らと従軍画家として日中船戦争に赴き、1939年には帰国します。その後再びパリに戻るものの第二次世界大戦が勃発。ドイツにパリが占領される前に日本に帰国することになってしまいます。そのころ日本も太平洋戦争に突入しており、藤田は陸軍美術協会理事長に就任。戦争画を描く日々が続きました。

第二次世界大戦が終結すると、戦争協力者として批判されるようになり、嫌気がさした藤田は1949年に日本を去り、再びフランスに渡ります。

その後は1959年にランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け数々の作品を残しましたが、1968年1月29日にガンのため死去。藤田は自身が設計と内装のデザインを行なったフジタ礼拝堂に埋葬され、最後の妻である君代夫人はその後も藤田の作品を守り続けました。

乳白色の秘密

藤田作品の一番の魅力はその透き通るような乳白色です。藤田は乳白色を表現するにあたっての方法を一切語らず、生前は秘密のままになっていました。最近になり藤田作品が修復されるにあたって分析が行われ、硫酸バリウムが下地に塗られ、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵の具を塗ることで乳白色を作り上げていたことが明らかになりました。

この技法は水に反応しやすく、絵肌が割れやすいため広い範囲にわたって網目状の亀裂が発生するなど経年劣化しやすいという弱点があり、藤田作品を保存するうえで大きな課題の一つとなっています。

藤田作品

ここまで藤田の画家としての歩みとその特徴的な画法について確認してきました。ではそんな藤田の作品はどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

《寝室の裸婦キキ》1922年

この作品は1922年に描かれたもので、実在の生きた人物をモデルにした、藤田にとって最初のヌード絵画の1つです。エドゥアール・マネの「オランピア」とティツィアーノ・ヴェチェッリオの「ウルビーノのヴィーナス」、ドミニク・アングルの「グランド・オダリスク」などを参考にしたと考えられています。裸の女性は真珠のように白い肌で描かれ、こちらに視線を投げかけています。参考した絵画から、古典的とも捉えられるであろうこの作品を、藤田は独特のユーモアで新しく日本の伝統と混ぜ合わせて表現しました。

《カフェにて》1949年

第二次世界大戦後の生きづらさから日本を離れることを決意した藤田は、パリに向かうための通過点として1949年にニューヨークに渡り、およそ10カ月間滞在しました。この作品はその際に描かれた作品といわれています。

カフェの片隅で黒いドレスの女性が頬杖をついて物思いにふけっています。テーブルの上には便箋と封筒が置かれており、女性は手紙に何を書こうか考えているようです。ソファー越しに見える窓の外にはパリの光景が広がっています。

《フジタ礼拝堂》1966年

フジタ礼拝堂はマルヌ県ランスのG.H.マム社の敷地内に建てられたロマネスク形式の礼拝堂で、壁画やステンドグラスなどを藤田が設計したことで有名です。藤田は1959年10月14日にランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け、その記念として聖母子像を描きランス美術館に寄贈しました。藤田はさらにランスに礼拝堂を建てることを思いつき、フジタ礼拝堂は80歳の藤田の人生最後の仕事となりました。壁画はフレスコ画でキリストの生涯が描かれていますが、その他にもデューラーやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなど藤田にとって重要な存在も描かれています。

おわりに

藤田嗣治は幼少時から画家になることを目指し、パリに渡ると乳白色の裸婦像で批評家たちから絶賛され、一躍時の人となります。しかし第二次世界多選の勃発とともに乱世に巻き込まれていくこととなり、戦後は批判に晒され、ついに日本を去ることとなってしまいます。

そんな藤田は現在君代夫人と共にランスのフジタ礼拝堂で眠っています。東京、パリ、そして世界各地をまたにかけて活躍した画家藤田嗣治は、フランス、ランスの地でようやく安らぎをみつけたのかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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