アレクサンドル・ロトチェンコ:グラフィック・デザインの父

アレクサンドル・ロトチェンコはロシアのサンクトペテルブルクに生まれたロシア構成主義の画家です。絵画はもとより、デザインや舞台芸術、写真など幅広い分野にわたって活躍したことでも知られており、のちにその功績から「グラフィック・デザインの父」といわれています。今回はそんなロトチェンコの生涯と主要な作品について解説していきます。

■アレクサンドル・ロトチェンコとは

(Public Domain /‘Alexander Rodchenko and Varvara Stepanova. 1920s’ by Mikhail Kaufman. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

アレクサンドル・ロトチェンコは1891年、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれました。1909年、18歳の時に父親が亡くなると、家族でタタールスタン共和国のカザンに移住します。小学校を卒業した後、1910年にはカザン美術学校に入学し、ニコライ・フェチンやジョージ・メドアバブのもとで学んでいます。生涯の伴侶となるワルワーラ・ステパーノワと出会ったのもこのころでした。1916年頃から2人は一緒に住み始めるようになります。

(Public Domain /‘Dance’ by Alexander Rodchenko. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ロトチェンコは学校を卒業すると、1914年からはモスクワのストロガノフ研究所で芸術についての学びを深めていきます。特にカジミール・マレーヴィチのスーパーリアリズムに影響を受けた抽象画を制作しており、このころから抽象表現に接するようになっていました。その後ロシア構成主義の指導者であるウラジミール・タトリンが企画した「The Store」に参加し、ロシア構成主義を学びます。ロトチェンコは過激なモスクワのアバンギャルドな芸術界に入り、創造的な生活を送っていくのです。

1920年にはボリシェヴィキ政府から芸術学校と美術館の再編成を任じられ、人民委員会の芸術部門を創設しました。また、芸術文化研究所の設立も支援しています。1920年から1930年まではバウハウスなどで教員を務めるなど、教育者としても活躍しました。

(Public Domain /‘Mayakovsky’. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

1921年、30歳のときにはロシア構成主義のメンバーとなり、抽象性、革新性、象徴性等が特徴的な作品の制作をはじめます。この頃、ポスターや本、映画のグラフィックデザインに専念するため、ロトチェンコは絵画の道を諦めました。
1923年から1928年まで左翼芸術誌「レフ」にて詩人であったウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ・マヤコフスキーのデザインと挿絵を制作し、妻であるワルワーラ・ステパーノワと共に舞台装置やインテリアデザインなどさまざまな分野へ進出していきました。ステパノーワは定規やコンパスを用いた幾何学的なデザインが得意であり、詩、哲学、絵画、グラフィックアート、舞台風景、テキスタイルや衣類のデザインの場で活躍しました。
このころは新しい表現方法が各地で発達した時代で、ダダイズムのフォトモンタージュもそうした技法の一つでした。フォトモンタージュとは写真を部分的に引用し、平面に切り張りして制作された写真作品のことであり、ダダイズムの作家をはじめとしてシュルレアリストなども制作していた手法でした。また対象が視線に対して斜めになると実際よりも短く見える「遠近短縮法」を開発して写真に取り入れていったのもこのころでした。

1924年にレーニンが亡くなり、スターリンが実権を握るとロシア・アヴァンギャルドなど前衛芸術は否定されるようになり、1930年には共同制作者であったウラジミール・マヤコフスキーも精神的に追い詰められピストル自殺を遂げてしまいます。マヤコフスキーは20世紀初頭のロシア未来派を代表する詩人で、共産党のプロパガンダ・ポスターを多数制作していました。活躍していたマヤコフスキーの死は、芸術家たちに大きな衝撃を与えました。

1934年には「社会主義リアリズム」が唯一の表現であるとソ連共産党中央委員会が決定します。社会主義を称賛し、革命国家が勝利に向かって進んでいる現状を平易に描き、人民を思想的に固め革命意識を持たせるべく制作されたものこそが芸術であるとされます。こうした政府の動きもあって、ロシアの前衛芸術は完全にその勢いを失ってしまいました。
ロトチェンコもそうした動きを受けてか、1930年代後半からは絵画制作を行い、1956年に65歳で亡くなりました。

■ロトチェンコの作品


ロトチェンコは、絵画はもちろん、デザインや舞台美術、写真などさまざまな作品で活躍しました。そんなロトチェンコの作品の主要な作品をご紹介します。

・《おしゃぶりの広告》 1923年

《おしゃぶりの広告》は1923年に制作されたポスターで、子供向けのおしゃぶりの広告のようなプロバカンダポスターです。典型的なプロバカンダポスターと異なる、ユニークなデザインと色彩が目を引きます。
シンプルな形とはっきりとした色で作られたキュビズムスタイルの赤ちゃんが特徴です。赤ちゃんの口の中には手榴弾と弾丸が入っており、目は大きく見開かれ、指は先の尖った鋭利な武器のように描かれています。グロテスクで強烈な印象を与えるため、一度見たら忘れられない作品です。

・《本を読もう!》 1925年

このポスターは、国立出版社レニングラード支部によって発行されたプロパガンダ・ポスターです。ソビエト連邦の低い識字率を克服するため、「本を読もう」という大きな文字が目立つ作品です。モデルの女性は、ロシアアヴァンギャルドの多くの主要人物と関係のあった、ロシアの作家であり社会主義者のリーリャ・ブリークです。
十月革命後の1919年12月26日、レーニンは、読み書きができない8歳から50歳までの全ての国民に、ロシア語または母国語で読書を勉強する義務があるという法令を発表しました。この作品は、そういった識字率向上キャンペーンの一環として制作されました。最近は、作品に敬意を表して黒い額縁に入れられた作品として紹介されることが多くなっています。

■おわりに

アレクサンドル・ロトチェンコが活躍したロシア構成主義は1917年のロシア革命のもと、新しい社会主義国家建設の動きと連動して大きく展開していきました。ロトチェンコはもちろん、ウラジミール・タトリンやエル・リシツキ―、コンスタンチン・メーリニコフといった作家が多様な作品を発表していきました。
ロトチェンコはそんななか円や直線、そして図形を用いることで、見るものにわかりやすく、そして印象的なポスターを制作していきました。またポスターばかりではなく建築や布地、演劇セットのデザインなどさまざまなデザインに挑戦し、キャンバスに限られない多様な分野で制作活動を行っていきます。

しかし1920年代後半にはソ連政府がスターリン体制になり、社会主義リアリズムが重視されたことにより、ロシア構成主義は衰退していってしまいます。ロトチェンコも1930年代後半からは絵画制作に戻っていますが、一部の作家が西ヨーロッパやアメリカ合衆国に渡ったということもあり、1930年代にはロシア構成主義は国際的に広まっていきました。また1930年代の抽象絵画に与えた影響も大きく、20世紀の芸術、デザインをより高めた存在といえるでしょう。
ロトチェンコは「日常生活に密着した芸術」を目標とし、日常にデザインを取り込むという観点からさまざまな仕事を行っていました。今では私たちの生活のあらゆるところにデザインがあふれていますが、そうした考え方をはじめて提唱したのがアレクサンドル・ロトチェンコなのです。芸術やデザインというとどうしてもヨーロッパに目が向きがちですが、日常のデザインのはじまりを考えるとロトチェンコの功績は大きいものがあります。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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