マン・レイ:シュルレアリスムの写真家


マン・レイは本名をエマニュエル・ラドニツキ―といい、1890年アメリカ合衆国ペンシルベニア州のフィラデルフィアに生まれました。レイヨグラフやソラリゼーションといったさまざまな技法を用いて前衛的な写真作品を制作したことで知られています。そんなマン・レイの生涯と作品とは、どのようなものだったのでしょうか。

■マン・レイとは

マン・レイ、本名エマニュエル・ラドニツキ―は1890年アメリカ合衆国ペンシルベニア州に生まれました。両親はロシア系ユダヤ人で、レイは彼らの四人の子供のうち、第一子として生まれました。出生名は「マイケル・ルドニツキー」でしたが、家族からは「エマニュエル」または「マニー」と呼ばれていたそうです。一家は1897年、ニューヨークのブルックリン、ウィリアムズバーグに引っ越しました。この頃、ユダヤ人家系だった一家はアメリカに馴染むため、姓を「レイ」に変更します。

レイは仕立屋の父からパッチワーク技術を学び、多種多様な素材を組み合わせる方法を幼い頃から知っていました。このことは、のちの彼のコラージュ作品などに影響を与えています。7歳の頃、色鉛筆で絵を描いていたこともありましたが、両親からはよく思われておらず、レイは芸術への探究心を潜めます。しかし、その強い意志から高校からは両親にも芸術を学ぶことを許可され、国立デザインアカデミーと、ニューヨーク・マンハッタンの学生芸術連盟に在籍していました。
入学した学校での美術教育に満足いかなかったレイは、1911年にModern School of New Yorks Ferrer Centerの夜間クラスに入学し、型破りで急進的な教師に出会い、大きな衝撃を与えられました。この学生時代に、彼はさまざまな絵画スタイルを次々と試していきます。

1913年には実家を出て独立し、ニュージャージー州のリッジフィールドにあった芸術家たちのコミュニティ参加するようになります。やがて、ベルギー出身の詩人であるドンナ・ラ・クールと出会いました。ふたりは強く惹かれ合い、間もなく結婚します。また、本名のエマニュエル・ラドニツキーではなく、(本名のEmmanuel Radnitzkyを縮めた)マン・レイと名乗るようになったのもこの頃です。
1915年にはニューヨークのダニエル画廊で個展を開催。6枚の絵画を販売しました。おそらくここで、「階段を降りる裸体」で有名になっていたマルセル・デュシャンと出会っています。レイはデュシャンの革新的なアイデアと理論に感銘を受け、すぐに仲のいい友達になりました。
1921年にはパリに渡り、モンパルナスに住みながら本格的に写真に取り組むようになります。写真をはじめたのはこれまでにない前衛美術の作品を制作する為でした。

パリではデュシャンの紹介でパリのダダイストたちと交流。職業写真家としても成功するようになり、ファッション雑誌に次々と作品が掲載されるようになっていきました。ミニマリズムの先駆的な作品を制作した彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと出会ったのもこのころで、マン・レイはブランクーシに写真の手ほどきをし、その経験はブランクーシの作品に大きな影響を及ぼしました。
1925年に行われた第1回シュルレアリスム展にはマックス・エルンスト、パウル・クレー、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソらと参加し、《破壊されるべきオブジェ》や《アングルのヴァイオリン》といった代表的な作品を制作しています。

(レイヨグラフ)

また露光をある程度過多にすることによりモノクロの写真の白と黒が反転する「ソラリゼーション」という技法を開発。またカメラを用いずに印画紙の上に直接ものを置いて感光させる「レイヨグラフ」という技法を思いついたのもこのころでした。
その後は写真作品を中心に映画やオブジェなどさまざまな芸術作品を制作していたマン・レイでしたが、第二次世界大戦が勃発するとアメリカに帰国。1940年から1951年まではカリフォルニアのロサンゼルスに住み、そこでであったジュリエット・ブラウナーと1946年に結婚しています。
1941年には油彩を中心とした制作活動をはじめます。しかしその活動は芳しいものではなく、当時のアメリカで流行していた抽象表現主義からは距離を置いていたため、アートシーンの中心に立つことはありませんでした。アメリカでの評価の低さから、1951年にはふたたびパリのモンパルナスに戻ることになります。

その後も画家としての活動を続けましたが、評価を得られることはなく、1976年に肺感染症が原因で亡くなっています。ジュリエットはマン・レイの財団を立ち上げ、美術館に作品を寄贈するなどマン・レイの芸術作品を広く伝える活動を行いました。

■マン・レイの作品

マン・レイの作品はソラリゼーションやレイヨグラフ、そして奇抜な構図を取り入れた写真作品が有名です。以下ではそんなマン・レイの主要な作品をご紹介します。

・《アングルのヴァイオリン》 1924年

レイは、ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの『浴女』からイメージを引き継ぎ、この作品のモデルとしてターバンを着たキキ・デ・モンパルナスを採用しました。生きている体をオブジェとして捉え、背中にサウンドホールを描くことによって女性の体を楽器に変えました。
彼女の曲線美とヴァイオリン本体の曲線美が重ね合わされ、不思議な印象を与えます。また、彼女の腕が見えない位置にあることにお気づきでしょうか。楽器の滑らかな輪郭を描くためにわざとみえないようなポーズになっているのです。

・《涙》 1932年

まるで映画のカットように見えるこの写真は、レイがドラマ映画に関心を持っていたことを示しています。 モデルの目とマスカラでコーティングされたまつ毛は上を向いており、鑑賞者は彼女がどこを見ているのか、そして彼女の苦痛の原因は何であるのか、疑問を抱くでしょう。
この作品は、レイのアシスタントであり恋人であったリー・ミラーと別れた直後に制作されました。レイは、彼を去った恋人への復讐としてこのほかにも複数の作品を制作しました。実は、モデルは本物の生きた女性ではなく、頬にガラスビーズの涙が付いたファッション用のマネキンです。

■おわりに

(Public Domain /‘Portrait of Man Ray and Salvador Dali, Paris’ by Van Vechten, Carl. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

マン・レイはレイヨグラフやソラリゼーションといったそれまでにない写真技法を編み出し、独特の雰囲気を放つ写真作品を制作しました。
後世の芸術家たちに与えた影響は大きく、今も前衛写真の巨匠として注目を集め続けています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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