シャイム・スーティン:ゆがめられたフォルムと内面性

シャイム・スーティンは1893年にロシア帝国に生まれた画家です。エコール・ド・パリの画家のひとりとして活躍し、主に表現主義の作品を制作しました。その独特の表現は「ゴッホよりもはるかに重要な画家である」と評されたこともあります。そんなスーティンの生涯と彼の作品について紹介します。

■シャイム・スーティンとは

シャイム・スーティンは1893年ロシア帝国(現ベラルーシ共和国ミンスク州)のスミラヴィチに生まれました。ユダヤ人家庭のシャイム一家には11人もの兄弟がおり、村でもっとも貧しい一家であったといわれています。スーティンは身体が弱く家の手伝いもできなかったため、家族から邪魔者扱いを受けていました。そんな環境でスーティンの唯一の救いは絵を描くことだったのです。しかし家が貧しかったことに加えて、ユダヤ教の戒律から絵を描くこと認められなかったため、画家になる決意をしたスーティンは故郷を去り、1910年にリトアニアのヴィリニュスにある美術学校で学ぶことになります。

1913年には友人のピンクス・クレメーニュ、ミシェル・キコイーヌらとともにパリに出たスーティンは、エコール・デ・ボザールのフェルナン・コルモンのアトリエに通い、エミール・ベルナールのもとで絵を学ぶようになります。また「蜂の巣」と訳される「ラ・リューシュ」と呼ばれる集合アトリエ兼住居に身を寄せるようになり、ここではマルク・シャガールやフェルナン・レジェと交流を結んでいます。特にアメデオ・モディリアーニはスーティンの面倒をよく見ており、スーティンの肖像画を3点も残しています。

(Public Domain /‘Chaim Soutine’ by Amedeo Clemente Modigliani. Image via WIKIMEDIA COMMONS)


その後ポール・ギヨームやレオポルド・ズボロフスキーなどスーティンの絵を扱ってくれる画商が現れましたが、依然としてスーティンの絵が売れることはありませんでした。
1920年にはモディリアーニが亡くなり、その死はスーティンに大きな影響を与えました。それは作品からも見てとれ、1919年から3年間滞在した南フランスのセレで描かれた風景画は、構図やタッチが荒々しくスーティンの心情を反映しているといわれています。恩人が亡くなったことにより、この先の画業はもちろん、生きていくことについて不安を抱くようになったのかもしれません。

(Public Domain /‘Albert Coombs Barnes’ by Carl Van Vechten. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

そんな中1923年1月1日には有名なアメリカ人コレクターのアルバート・C・バーンズがギヨームの画廊でスーティンの《ケーキ職人》に感銘を受け、画廊に掛けられていた彼の全作品を3000ドルで買い上げ、スーティンの名前は一躍芸術界に広まっていきました。バーンズは「スーティンはゴッホよりもはるかに重要な画家である」と絶賛しており、アメリカで作品が展示されると高く評価され、それにともなってフランス国内の評価も高まっていきました。その後はパリで最初の個展も開かれ、豪邸に住み、運転手付きの生活を送れるようになります。

しかし晩年になると再び貧しい暮らしを送るようになります。また1940年にはフランスにドイツが侵攻し、ユダヤ人はゲシュタポに追いつめられるようになっていきます。スーティンはそうした状況もあってフランス中部の村を転々とせざるを得ませんでした。しかしこの生活は持病の胃潰瘍を悪化させることになってしまい、1943年には手術を受けるもその直後に亡くなっています。

■スーティンの作品

スーティンの作品は風景や人物、静物などさまざまなモチーフを描いていますが、どれもフォルムが激しくゆがめられており、何度も塗りこまれた不思議な色使いが特長です。人物画では街のレストランのコックやボーイなどの名もなき人々を好んで描いており、静物画では動物の死骸をモチーフとしてよく選んでいました。
こうした作風に至った背景には、ユダヤ人であるという彼の出自が関係しているのではないかと指摘されています。ユダヤ人は古くからヨーロッパで排斥され続けており、また貧しい家庭に生まれ育ったことも影響を与えたのかもしれません。そうした環境から生み出された焦燥感や苦悩は激しいタッチやゆがめられたフォルムと共に作品に表現されたのです。

《小さな菓子職人》 1921年

1921年に制作された油彩作品で、現在はポートランド美術館に所蔵されています。スーティンはメイドや召使など名もなき人々を好んで描いていましたが、中でも有名なのがこの《小さな菓子職人》です。赤い背景を前に描かれた菓子職人はどこか不安げで悲しそうな表情をしています。また背景や彼自身の体もうねるように描かれています。
スーティンは一時期を除いて困窮の生活を送っており、そうした中で常に労働者階級に関心を寄せていました。スーティンのまなざしは菓子職人の現状や心情、そして困難な状況に向けられており、荒々しいタッチで表現されています。

《母性》 1942年

1942年に制作された油彩作品で、現在は個人所蔵となっています。中央には黒い衣服を身にまとった母親と思われる人物が不安そうに一点を見つめています。その腕には子どもが眠っており、母親の服の黒、子どもの服の白、そして不安な表情と安らかな寝顔という対比が作品全体に不調和を創り出しています。また背景には暗色を基調としてさまざまな色が描きこまれており、母親の不安を象徴しているかのようです。

《マデレーン・カステンの肖像》 1929年

1929年に制作された作品で、現在メトロポリタン美術館に所蔵されています。モデルとして描かれているマデレーン・カステンはフランスのアンティーク商でインテリア・デザイナーとして活躍した人物です。シャイム・スティーンは1920年に彼女と出会います。彼女とその夫は10年間にわたってシャイム・スティーンにとって最も重要なパトロンであり続けました。
彼女の肖像画はパリにあるシャイム・スティーンのスタジオにおいて6回にわたり製作されました。彼女は威厳のある風格で描かれてはいますが、その表情はどこか不安げです。肖像画のモデルを務めるには長時間同じ姿勢で座り続けなければなりませんが、ソワソワとした手元や、緊張した表情からはポーズをとっている間の彼女の不快感を感じさせられます。上品で権力を持っている一方で、どこか不安げで傷つきやすい人物であるというカステンの人となりをみごとに描き切った作品ですが、これはスーティンがモデルの内面をよく観察していたことの証拠とも言えるでしょう。

■おわりに

シャイム・スーティンはロシア帝国の貧しい村に生まれ、絵を描くことに喜びを見出し、名もなき人々や風景を主に描いた画家です。彼はユダヤ人という出自や経済的不安、自信を未完成だと感じる屈折した思いに苦しめられており、そうした画家の内面性はゆがめられたフォルムと激しいタッチとして作品に表されています。
スーティンは有名になると、自分が描いた作品のいくつかをコレクターや美術館から取り戻すようになり、その晩のうちに絵を引き裂いてしまうということを繰り返しました。有名になり、芸術性が認められてもなお解消されない苦悩が画家をそうした行動に導いてしまったのかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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