ジュール・パスキン:愛と放浪の画家


ジュール・パスキンは、1885年にブルガリアで生まれた画家です。その華やかな生活から「モンパルナスの王子」の異名を得る一方、作品は不安感や孤独感を表した物をよく描いていました。

■ジュール・パスキンとは

ジュール・パスキンは1885年、ブルガリアのヴィディンに生まれました。本名はユリウス・モルデカイ・ピンカス。生家は穀物商を営む裕福なユダヤ系の一家であり、早くから芸術に関心を抱くようになります。
ミュンヘンではデッサンの才能が認められ、1904年には風刺雑誌である「ジンプリツィシムス」と契約を結び、風刺画を描くようになります。このころから本名のピンカスからパスキンと名乗るようになり、徐々に風刺画家として名を知られるようになっていきました。
1905年、20歳になったパスキンはフランスのパリに居を構えます。新しい表現を求めてパリに集まってきた画家たちは、当時の芸術の一大拠点であったモンマルトルやモンパルナスに身を寄せていました。そんな中でパスキンはフォービスムに影響を受け、作品を制作するようになります。フォービスムとは1904年にサロン・ドートンヌに出品された原色を多用した色彩と激しいタッチの作品のことであり、批評家ルイ・ボークセルが「あたかも野獣(フォーブ)の檻の中にいるようだ」と称したことからこの名が付けられました。

(Public Domain /‘Henri Matisse’. Image via WIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Andre Derain’by Agence Meurisse. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

主なフォービスムの画家としてはアンリ・マティスやアンドレ・ドランなどが知られており、パスキンもそうした影響を受けてか色彩豊かな作品を描くようになっていきます。
1913年にはニューヨークで行われた大規模な展覧会「アーモリー・ショー」に選抜され、作品を出品します。アーモリー・ショーはニューヨークを皮切りにボストンとシカゴを巡回した展覧会で、正式名称は「国際現代美術展」といいますが、最初の開催地であるニューヨークで兵器倉庫を利用して開催されたため、一般的にアーモリーショーと呼ばれています。
この展覧会では1200点以上もの作品が展示され、構成はヨーロッパ作家によるものとアメリカ作家によるものが半々になっていました。ヨーロッパの作品傾向は印象派や新印象派、フォービスムやキュビスムといったフランスの前衛芸術が中心でした。またこの展覧会ではマルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体」などの前衛的な作品が賛否両論をおこし、アメリカの美術会に衝撃を与えたことでも有名です。

そんなアーモリー・ショーに選抜されたということからも、パスキンは当時のアート・シーンにおいてヨーロッパを代表する画家として認められていたことが伺えます。
そうしてパリで制作活動を行っていたパスキンでしたが、第一次世界大戦が勃発すると1914年に戦火を逃れてロンドンへ、次いでニューヨークに向かい作品を出品しますが、このころから徐々にスタイルが変化していき、具象的な作品を描き始めます。1918年にはエルミヌ・ダヴィットと結婚し、アメリカの国籍を取得しています。
第一次世界大戦が終結すると、パスキンはふたたびパリのモンマルトルに戻り、制作に専念するようになります。ちょうどこのころがパスキンの成熟期といわれており、独自の画風を確立していきました。

またこの時期パスキンは仲間を引き連れてはカフェの「ラ・クーポール」やナイトクラブで華やかな社交生活を送っていました。ラ・クーポールはパブロ・ピカソや藤田嗣治、ジャン・コクトー、アーネスト・ヘミングウェイなども訪れていた人気の店で、現在も営業を続けています。

こうした華やかな生活の一方で、パスキンはアルコール依存症とうつ病に苦しむようになっていきます。友人でノルウェー出身の画家であるペル・クローグの妻リュシーと不倫関係になりますが、酒と麻薬にまみれた自堕落な生活が原因で彼女にも愛想を尽かされてしまいます。
そうした生活の中で身体はもちろん、精神的にも追い詰められたのか、1930年6月5日にパスキンは自宅アトリエの浴槽で手首を切り、首をつって自殺してしまいます。ドアには血文字で「さよなら、リュシー」と書かれていました。
パスキンの葬儀が行われた6月7日にはパリのすべてのギャラリーは閉じて彼の死を悼み、何千人もの知人が棺のあとに列をなしたといわれています。

■パスキンの作品

裕福な家庭に生まれ、パリやニューヨークで華やかな生活を贈るものの、晩年は酒と麻薬に溺れ、ついに自殺にまで追い込まれてしまったパスキン。そんなパスキンの作品は近代都市を生きる人々をテーマとしており、その絵画からは画家自身と同じく色鮮やかでありながら、どこか不安感や孤独感を醸し出しています。そんなパスキンの作品をご紹介します。

《花束を持つ少女》 1925年

(Public Domain /‘Girl with a Bouquet’ by Jules Pascin. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1925年に制作された作品で、現在は日本の北海道立近代美術館に所蔵されています。1920年代のパスキンの作品は「真珠母色の時代」といわれており、震えるような線描やけむるような淡い虹色の色彩が特徴的です。またモデルとなったのは裸婦や少女であり、本作品で描かれている少女ははかなげな雰囲気を漂わせています。少女の表情に目を向けてみると、どこか不安や孤独感が感じられ、明るい画面がその表情を引き立てています。
パスキンは裕福な家庭に生まれたものの、各地を転々とし、また大都会パリで華やかな生活を送りつつも、その出自もあってか不安や孤独感を抱いていたといわれています。作品にはそうしたパスキンの心情も描き出されているのかもしれません。

《少女たち》 1923年

本作品は1923年に制作された物で、油彩とパステルを使って描かれています。作中に裸や下着姿の女性がいることから、おそらく娼館を題材にしているのでしょう。
パスキンは、少年の頃から娼館に通っていました。さらに、裕福な実家から家出をしたパスキンにとって、優しさを施してくれる彼女たちが心の拠り所だったのです。それを表すかのように、優しく繊細なタッチで描かれています。

■おわりに

ジュール・パスキンはブルガリアの裕福なユダヤ人家庭に生まれたものの、画家を目指して家を飛び出し、各地を転々としながら画家としての地位を確立していきます。特にその震えるような輪郭線と柔らかな色彩は「真珠母色の時代」といって称賛されましたが、そのころに作品に登場するのは娼婦や少女であり、画家の不安な心情を映し出しているようにも思えます。

こうした独自の表現にたどり着いたのにもかかわらず、アルコール依存症や友人の妻との不倫の恋などパスキンは自堕落な生活にはまりこんでしまい、自ら命を絶ってしまいます。実際のところ、パスキンの自殺の本当の理由は定かではありませんが、華やかな社交生活を過ごしながらも、常に抱えていた不安や孤独感が彼の命のトリガーを引いてしまったのかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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