モイズ・キスリング:幸福な画家

イズ・キスリングは1891年オーストリア=ハンガリー帝国の大公国であるクラクフ大公国の首都クラクフに生まれ、エコール・ド・パリの画家として活躍しました。その陽気で面倒見の良い性格から「モンパルナスの帝王」と呼ばれ、独特の表現を用いた作品を残したキスリングの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■モイズ・キスリングとは

モイズ・キスリングは1891年オーストリア=ハンガリー帝国の大公国であるクラクフ大公国の首都クラクフでユダヤ人の家系に生まれました。

キスリングは幼いころに芸術への関心を抱くようになり、クラクフ美術学校に進学。美術学校では印象派の影響を受けた画家ユゼフ・パンキエヴィッチの指導を受けます。キスリングの才能に気が付いたパンキエヴィッチは彼にパリに出ることを薦め、1910年19歳の時にランス、パリのモンマルトルに移り、画家としての活動をはじめました。

(Public Domain /‘Pablo Picasso, Moïse Kisling and Paquerette’Image via WIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Georges Braque’Image via WIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Amedeo Modigliani’Image via WIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Constantin Brâncuşi’ by Edward Steichen. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

キスリングはその後「洗濯船」と呼ばれるモンマルトルの集合アトリエ兼住宅に居を移します。洗濯船はエミール・グードー広場に面したラヴィニャン通り13番地にあり、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラック、アメデオ・モディリアーニやコンスタンティン・ブランクーシといった当時の前衛芸術家たちをはじめ、文学者や俳優、画商などが活動の拠点とした場所でした。そこでキスリングは生来の明るさと社交性を発揮し、親しい交流関係を築いていきました。
その後ピカソをはじめとしたモンマルトルの画家たちが次第にモンパルナスに移動すると、キスリングもモンパルナスに移住し、モディリアーニやパスキンらと生活を共にするようになります。

第一次世界大戦が勃発すると、キスリングは自ら志願して外国人部隊に従軍します。ソンムの戦いでは重傷を負ってしまい、兵役を解かれてスペインで療養することになってしまいますが、その功績もあって、1916年にはフランス国籍を得ています。

1917年には画学生であったルネ・グロと結婚。ルネは軍の要人の娘であったため、キスリングの作品も売れ始めるようになっていきます。1919年にはギャラリー・ドリュエにて個展を開催し、好評だったため、1920年代には画家としての地位を確立するまでになっていました。

その後第二次世界大戦が勃発すると再び志願して従軍しますが、フランスは降伏。身の危険を感じたキスリングはアメリカに亡命します。アメリカ滞在中はニューヨークやワシントンで展覧会を開き、カリフォルニアを住まいとして制作活動を行っていました。その後第二次世界大戦が終結すると、1946年にフランスに帰国しています。

その後も制作活動を行っていたものの、1953年4月29日、南フランスヴァール県の港町サナリー・シュル・メールで62歳の生涯を閉じています。アルコール中毒であったモディリアーニやモーリス・ユトリロなどエコール・ド・パリの画家たちには自ら破滅していく画家が多かったものの、キスリングは例外的に幸福な生涯を送った画家であったといわれています。

■キスリングの作品

キスリングの作品は鮮やかな色彩が特徴的で、当時のエコール・ド・パリの画家たちの作品と比べても個性的な表現になっています。平面的で無機質な印象を与えるタッチであるものの、鮮やかな色彩が加わると、どこか幻想的な世界観を創り出しています。
そんなキスリングの作品とはどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

《風景、パリ-ニース間の汽車》 1926年

本作品は1926年に制作された油彩作品です。パリとニースの間を走る汽車が描かれており、南仏の緑の崖は色鮮やかに表現されています。南仏のコート・ダジュールのニースは当時から世界でもっとも有名な保養地の一つであり、1864年に鉄道が開通すると観光地として発展し、パリをはじめとした都会から多くの人々押し寄せるようになっていきました。1922年には貨客列車「ブルー・トレイン」が運航を開始し、パリの人々はブルー・トレインでニースに行くことを夢見るほどでした。
キスリングはそうした人々の憧れの的であった汽車を描いています。色鮮やかな緑や白に加えて、汽車の戦闘列車には目を引くようなはっきりした赤が用いられていることから、明暗のコントラストがはっきりしており、思わず目を引く構図を作り上げています。

《窓辺のテーブル(サン=トロペ)》 1918年

現在では仏コート・ダジュールのサン=トロペは、リゾート地として有名な土地ですが、かつては貧しい小さな漁村でした。1890年代には新印象派の画家たちが、20世紀に入るとアンリ・マティスなどの画家たちがこの地を訪れて数々の名作を制作したことで有名になっていきました。
キスリングもまた1918年に長期滞在しており、本作品はその滞在中に描かれてものと考えられます。開かれた窓と室内の静物という構図はキスリング作品の中でも何度も用いられており、赤や緑、黄色といった色鮮やかな色彩がリゾート地であるサン=トロペの美しさを表現しています。

《ファルコネッティ嬢》 1927年

本作品は1927年に制作された油彩作品です。華やかな赤いドレスを身にまとって花束を抱えて座る女性はモデルのルネ・ファルコネッティというパリの大衆演劇の舞台女優です。キスリングはパリの社交界の人々と交流を結んでおり、彼らから依頼を受けては肖像画を制作していました。本作品もそうした肖像画の一つであると考えられています。
ファルコネッティ嬢は神妙な表情を浮かべ憂いをおびた瞳で一点を見つめていますが、こうした表現はキスリングが女性を描く際の一つの特徴でもあります。次に紹介する《モンパルナスのキキ》 にもその特徴が現れているので見比べてみると面白いと思います。また彼女が身につけた赤いドレスと緑のソファの色の対比など、キスリングならではの鮮やかな色彩も見所です。

《モンパルナスのキキ》 1925年

本作品は1925年に制作された作品で、現在はジュネーブのプティ・パレ美術館に所蔵されています。作品のモデルをつとめた女性はアリス・プランといい、通称キキと呼ばれた人気のモデルでした。その明るい性格からモンパルナスの画家たちに大変な人気があり、特に藤田嗣治の《裸で横たわったキキ》は彼女を一躍有名にしました。
キスリングもまたモンパルナスのキキを描いていますが、作中でキキは赤い衣服に紫色を基調としたスカーフを首に巻いており、どこか静かで、哲学的ともいえるような視線をこちらに向けています。複数の色を使わず、平坦なタッチであるものの、キスリングはキキの内面性まで描きぬいており、作品そのものがキキのポートレートとなっています。キキは自身もまた画家として活動していたものの、1929年から世界恐慌が始まり、1920年代のパリの黄金時代を終えると、転落の人生をたどっていくことになります。

■おわりに


モイズ・キスリングはオーストリア=ハンガリー帝国の大公国であるクラクフ大公国の首都クラクフに生まれ、パブロ・ピカソやアメデオ・モディリアーニら当時の前衛芸術家と交流しては、自身の芸術を探求し、作品を制作していきました。
その作品は華やかな色彩にあふれており、フォービスムの影響が指摘されていますが、加えてそこにはキスリングが生来もっていた明るさや社交性も影響しているのかもしれません。

参考:モイズ・キスリング

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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