モーリス・ユトリロ:白の画家

モーリス・ユトリロは、1883年フランス・パリで生まれた画家です。家庭環境に恵まれなかった事が原因で、アルコール依存症や精神障害を患いました。治療の一環として絵画制作を開始しましたが、入退院を繰り返し、生涯に渡ってアルコール依存症に苦しめられました。しかし、アルコール依存症を患った初期、「白の時代」に描いた作品が最も評価を受けています。そんなユトリロの生涯と、作品とはどのような物だったのでしょうか。

■モーリス・ユトリロとは

(Public Domain /‘Maurice Utrillo Suzanne Valadon’Image via WIKIMEDIA COMMONS)

モーリス・ユトリロは1883年にパリ、モンマルトルに生まれました。母親はシュザンヌ・ヴァラドンで、彼女はルノワールやロートレックなどのモデルを務めたのちに自身も画家として活動しています。そのためヴァラドンは、ユトリロの世話を母親マドレーヌに任せっきりにしていました。ユトリロは身体が弱く情緒不安定で、2歳の頃にはてんかんの発作を起こしてしまい、その後も後遺症に悩まされることになります。
ユトリロは公立学校に入学するも、馴染むことが出来ませんでした。その頃画家として成功していた母ヴァラドンは、そんなユトリロをラバ街のフレスネルという私立学校へ入学させます。母ヴァラドンは恋多き女性で、ユトリロが7歳の時に、スペイン人ジャーナリストのミゲル・ユトリロ・イ・モルリウスと出会います。ちなみに、ミゲルがユトリロを息子として認知したので、ユトリロは「モーリス・ヴァラドン」から「モーリス・ユトリロ」へと改姓しています。しかし、その後も母ヴァラドンはエリック・サティと愛人関係を結ぶといった有様でした。そうした環境の中で、ユトリロは精神病の傾向を見せるようになっていくのです。
1894年になるとヴァラドンは布地商であるポール・ムジスと同棲するようになり、1896年には結婚。ヴァラドンとユトリロは安定した生活を送れるようになります。学校での成績も優秀なものでしたが、最高学年でたびたび問題を起こしてしまい、結局中学を退学してしまいます。1900年になると義父の紹介で外交員の職に就きますが、4か月しか持たず、ユトリロ自身が気難しく、アルコール依存症の影響で暴力的になったこともあって、一家は転居を繰り返すことになってしまいます。

1902年になるとモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住むようになり、この頃からユトリロは水彩画や風景画を描くようになります。その背景には主治医がユトリロのやりたいことをやらせるようにと母のヴァラドンにアドバイスしたことや、母もユリトロの気を少しでもアルコールからそらせたいと考えていたことが挙げられます。しかしアルコール依存症はどんどん悪化していき、パリのサン=タンヌ精神病院に入院。それをきっかけとしてヴァラドンとムジスは別れることになってしまいます。

ユトリロは病院から退院するとモンマルトルで絵を描き始めるようになります。ヴァラドンも助言をしましたが彼は基本的には独学で描いており、当時は印相派の画家に特有の点描画法を用いていました。ユトリロは次第に絵に強い関心を抱くようになり、熱を入れて作品制作に携わるようになります。1909年にはサロン・ドートンヌに2点出品しており、芸術はユトリロにとって精神を開放する手段にもなっていました。1910年までには批評家から高い評価を受けるようになり、白を基調とする街角の風景はユトリロの代名詞として広まりはじめます。
こうした作品を制作した期間を「白の時代」といい、ユトリロは数百点にも及ぶ作品を制作。1928年にはレジオンドヌール勲章をフランスから贈られており、まさにエコール・ド・パリを代表する画家となっていました。しかしユトリロの精神状態は安定せず、アルコール依存症による暴力的な傾向は収まることはありませんでした。1914年には暴行と器物損害で逮捕され、精神病院に再度入院することになってしまいます。その後もアルコール依存症は完治することなく、72歳で波乱の生涯を閉じました。

■ユトリロの作品

ユトリロは白を基調としたパリの風景を多数描いた画家でした。一見して穏やかな作品に見えるものの、ユトリロ自身アルコール依存症に苦しめられ続けており、正気に戻った短い時間で描き上げたものです。そんなユトリロの作品はどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心に解説します。

《サノワの風車》 1912年

1912年に制作された作品で、現在はメトロポリタン美術館に所蔵されています。1912年の春、ユトリロはアルコール依存症のためパリの郊外にあるサノワのサナトリウムに入所します。サナトリウムでは外で絵を描くことを許されていたため、ユトリロは村の日常的な風景をモチーフに多数の作品を制作しました。その中でも特にユトリロが魅了されたのが風車でした。風車は周囲の風景や建物を見下ろすように描かれており、静かでありながらも動的な構図が展開されています。ユトリロはその後もたびたび風車をモチーフとしており、ゴッホやルノワールも描いたことのあるダンス・ホール「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」の風車を彼も描いています。

《ノートルダム大聖堂》 1909年

本作品は1909年に制作された作品で、現在はオランジュリー美術館に所蔵されています。ノートルダム大聖堂をモチーフとして採用した背景には印象派、特にモネによるルーアン大聖堂の連作の影響が指摘されています。ノートルダム大聖堂には聖人の彫像や精巧な彫刻などが設置されており、それはノートルダム大聖堂であることを示すわかりやすい特徴のひとつでした。しかしユトリロはこうした細部をあいまいに表現しています。その一方で黄色っぽいレンガや青い影、オレンジの扉など色彩に注意を払って描いており、ユトリロが光の効果を描こうとしていたことがわかります。またユリトロの絵画には人物が描かれることは滅多になく、多くの人で賑わっているはずのノートルダム大聖堂を題材にしたこの作品においても、そこに描かれているのは大聖堂の建物だけなのが特徴的です。

《町役場の旗》 1924年

本作品は1924年に制作された作品で、オランジェリー美術館に所蔵されています。1920年以降ユトリロは鮮やかな色彩を用いた絵を描くようになり、その時代を「白の時代」とは対照的に「色彩の時代」と呼びます。その背景には「白の時代」の絵画が人気を博したことから経済的な余裕が生まれ、より高価な絵の具が使えるようになったことが挙げられます。しかしユトリロはアルコール依存症や精神病のために自由に旅することを許されておらず、多くのユトリロ作品は絵葉書をもとに制作されています。本作品もフランス東部ロレーヌ地方のリュネヴィル近くにあるメックス村の絵葉書に基づいて制作されたことが分かっています。この作品では先程の《ノートルダム大聖堂》 とは異なり、建物よりも前面に村の人々の姿が描かれています。中心にはフランスの国旗が揚げられていることから、何らかの行事のために人々が集まっているようです。様々な色彩が使われることにより人々の間に流れる祝祭的なムードが効果的に表現されています。

■おわりに

ユトリロはシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、父親が何度も変わる複雑な家庭環境の中で育ちました。そうした鬱屈とした状況はユトリロをアルコール依存症にしてしまいますが、絵画を描くきっかけにもなっています。それぞれの作品は静かな風景に見えますが、絵葉書から描かれていたり、ユトリロの心の不安が表されていたりと、その背景を知るとユトリロの不遇の境遇に哀愁を感じずにはいられません。

参考:モーリス・ユトリロ

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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