マリー・ローランサン:パステルカラーの女性アーティスト

マリー・ローランサンは、1883年にフランス・パリで生まれました。柔らかなパステル調で女性像を描くのが特徴で、上流階級の女性達から多くの注文を受けていました。そんなマリー・ローランサンの生涯と作品とは、どのようなものだったのでしょうか。

■マリー・ローランサンとは

マリー・ローランサンは、1883年にフランス・パリで私生児として生まれました。ローラサンの父親は、代議士のアルフレッド・トゥーレ、母親はポーリーヌ・メラニー・ローランサンです。しかし、長い間自分の父親を知ることはなく、母親の手で育てられました。

(Public Domain /‘Georges Braque’Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ラマティーヌ高校へ進学すると、芸術に関心を持つようになります。次第に画家を志すようになりますが、母の反対を受けたため、陶磁器の絵付けの学校へ通うことにしました。その後はデッサン学校へ進学、そして絵の私塾であるアカデミー・アンベールで勉強を始めました。そこで、キュビスム創設者の一人であるジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビスムの影響を受けるようになっていきます。

1907年、アンデパンダン展に初出品し、画家としてのスタートを切ります。ブラックとの交流は続いており、「洗濯船」と呼ばれる安アトリエで、数々の芸術家たちとも交流を結んでいきました。洗濯船とは、エミール・グードー広場に面したラヴィニャン通り・13番地にあった集合アトリエ兼住宅です。パブロ・ピカソやアメデオ・モディリアーニ、コンスタンティン・ブランクーシといった前衛芸術たちが集まる場でもありました。

(Public Domain /‘Guillaume Apollinaire’Image via WIKIMEDIA COMMONS)

ローランサンは、「洗濯船」で知り合った美術評論家のギヨーム・アポリネールと恋に落ちました。二人が知り合った当時、アポリネールが27歳、ローランサンが22歳と若かったこともあり、二人の情熱は燃え上がるばかりでした。そんな二人でしたが、1911年にアポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者として警察に拘留されるという、事件が起こってしまいます。アポリネールは無罪でしたが、ローランサンの想いは冷めてしまい、二人は破局しました。しかし、ローランサンを忘れることが出来ないアポリネールは、後の代表作となる「ミラボー橋」という詩に想いを綴りました。
ローランサンは、精力的に制作活動を進めていきました。1912年には個展を開くまでに至り、見事成功を収めます。ローランサンが30歳になる頃には、エコール・ド・パリを代表する画家として知れ渡るようになっていきました。
1914年、ドイツ人男爵のオットー・フォン・ベッチェンと結婚し、ドイツ国籍を取得します。しかし、同年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ国籍を取得したローランサンは敵国の人間とみなされ、マドリッドやバルセロナへの亡命を余儀なくされました。戦後の1920年に離婚し、再びパリに居を構えるようになります。

(Public Domain /‘Marie Laurencin’ by Agence de presse Mondial Photo-Presse. Image via WIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Portrait of Baroness Gourgaud in a pink coat’ by Marie Laurencin. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

戦前、ローランサンの作風は、キュビスムの影響を大きく受けたものでした。しかし、戦後のローランサンは、パステルカラーを用いた夢見る少女像を描くようになります。1920年代のフランスは、「狂乱の時代」とも言われており、その波に乗ったローランサンは売れっ子になっていきました。その証拠に、パリの上流婦人の間では、ローランサンに肖像画を注文することが一つのステータスになるほどでした。また、ローランサンは舞台装置や舞台衣装のデザインでも活躍しました。フランシス・プーランクのバレエ『牝鹿』や、オペラ=コミック座の『娘たちは何を夢みる』などの作品を手掛け、大変な話題となりました。

世界大恐慌が起こると、ローランサンは美術教師として働きながら、母・ポーリーヌや家政婦・シュザンヌ・モローと共に穏やかな時を過ごしていました。しかし、第二次世界大戦が勃発すると、ローランサンにとって辛い出来事が続きます。ドイツ軍によって住み慣れたアパートを奪われ、終戦後には対独協力者の容疑で逮捕・強制収容所へ収監されてしまったのです。こうした状況の中、ローランサンは社交界よりも修道院で過ごすことを選び、自宅に引きこもるようになります。1954年にはシュザンヌ・モローを養女に迎え、制作活動を続けましたが、1956年にパリで心臓発作を起こして死去しました。

■ローランサンの作品

ローランサンは、薄いパステル色を基調とした柔らかいフォルムの女性像をよく描いていました。ローランサンは、まるで女性や少女たちが夢の世界にいるようなタッチで描いています。しかし、時折その表情からは不安や孤独を感じることから、ローランサンの観察力の高さが伺えます。そんなローランサンの作品をご紹介します。

《シャネル嬢の肖像》 1923年

1920年代の上流階級の女性たちは、ローランサンに肖像画を注文することをステータスとしていました。あのココ・シャネルも、そんな女性たちの一人です。シャネルは、1910年に帽子の専門店としてシャネル・モードを開業、1921年に初の香水であるNo.5を発表するなど、女性実業家として大変注目を集めていました。
しかし、本作品のシャネルは、服がはだけた状態で椅子に身を委ね、どこか不安げな視線をこちらに向けています。出来上がった肖像画を見たシャネルは、自分に似ていないことを理由に描き直しを要求しますが、ローランサンは怒って拒否してしまいます。確かに、肖像画のシャネルは、「強い女」という世間のイメージとはかけ離れた作品だったのです。恋人と別れたシャネルは、家族を持たず、実業家として仕事に専念していました。同じく家族を持てない寂しさを抱いていたローランサンは、シャネルから同じものを感じ取っていたのかもしれません。

《女優たち》 1927年頃

本作品は1927年頃に制作された油彩作品で、現在は日本のポーラ美術館に所蔵されています。舞台の幕と思われる布の前には、楽器を持った一人の女性と、抱き合う二人の女性がいます。3人に共通する「黒い瞳」「ピンクの唇」「頬紅」が神秘的な雰囲気を醸し出している作品です。《女優たち》というタイトルから、舞台上で演技をしている様子を描いたものと考えられますが、抱き合う二人の女性は、恋人同士のようにも見えます。作品全体には、甘美で幻想的な雰囲気が広がっており、まるで女性たちのユートピアを表現しているかのようです。

《ヴァランティーヌ・テシエの肖像》1933年頃

本作品は、1933年頃に制作された油彩作品です。モデルは女優・ヴァランティーヌ・テシエで、1920年代には「ボヴァリー夫人」を始めとした数々の映画に出演し、実力派女優として活躍していました。本作品は、テシエの優美な魅力を余すことなく描いた作品です。テシエは、薄紫色のドレスと真珠のアクセサリーを身に付け、まるで舞台上にいる時のような恍惚の表情を浮かべています。また、どこか満足げにテシエを見上げている犬の様子や華やかなパステルカラーは、ローランサンの特徴である、夢のような世界観を醸し出しています。

■おわりに

マリー・ローランサンは、キュビスムの影響を受けた作品を制作していたものの、徐々に独自の表現を確立するようになっていきました。パステルの柔らかい色調で描いた女性像は、当時の上流階級の女性たちの注目を集め、シャネルをはじめとした女性実業家たちも肖像画を依頼しています。戦争前後は、私生活で苦境に立たされることも多かったローランサンですが、最後まで作品の中にユートピアを表現し続けたのです。

参考:マリー・ローランサン

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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