高崎剛:エコール・ド・パリの日本人

高崎剛は1902年生まれの日本人画家で、1920年代のエコール・ド・パリで活躍しました。藤田嗣治が将来を属目するほどの才能を持つ人物でしたが、若くして亡くなってしまいます。またキャンバスに金箔をはるなど、独自の表現を探求し他ことでも知られています。そんな高崎剛の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。

■高崎剛とは

(Public Domain /‘Kono Misao’ by The Asahi Shimbun Company. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

高崎剛は1902年東京に生まれました。家は大変裕福だったといわれています。詳しい画歴は分かっていませんが、1924年には横浜から日本郵船の箱根丸で高野三三男や岡田謙三らとともにフランスに渡ったことが分かっています。

フランスに渡ったのちは、パリのモンパルナス地区に居を構えます。当時のモンパルナスでは400人から500人の日本人洋画家が切磋琢磨の日々を送っていました。そうした日本人も含めて、パリのモンマルトルやモンパルナスには世界各地から集まった画家たちが制作活動を行っていました。エコール・ド・パリは「パリ派」と訳すことができます。しかし印象派のようにグループ展の開催や、キュビスムのような芸術理論を掲げるといったわけではなく、パリ派は出身国も画風も様々でした。そうした画家たちの一部が1928年にパリの画廊で開いた「エコール・ド・パリ展」が語源となり、「エコール・ド・パリ」と呼ばれるようになったといわれています。

そんなエコール・ド・パリの画家のひとりとしてフランスで制作活動を行っていた高崎でしたが、彼はそんな日本人画家の中でもひときわ異彩を放っていました。それは裕福な実家にひとり残った母親が高額な仕送りを毎月送り続けていたためでした。そんな高崎の裕福な生活は画家たちの間で語り草になっていましたが、高崎はダゲール通りの半地下にあったアトリエでゴロワーズの煙をたなびかせながら精力的に制作活動を行っていました。

高崎はそうした制作活動に加えて「巴里週報」と呼ばれる在仏日本人のための雑誌の編集にも携わっていました。「巴里週報」は石黒敬七が発行人となった日本語新聞で、手書きのガリ版で一枚刷りからはじまりました。徐々に人気が集まるようになり、3年目からは凸版印刷機を導入。写真入りの新聞を1000部発行できるようになります。「巴里週報」の内容は旅館や銀鉱、日本人会料理部の情報などで、パリに住まう日本人の心のよりどころとなる存在でした。

発行人の石黒の盟友であった藤田嗣治も寄稿文を寄せており、現在では当時のパリの日本人たちの生活を詳細に示す貴重な歴史的資料となっています。
高崎は1927年には大戦傷病兵義捐展覧会日本美術家部門、1928年には在パリ日本人美術家展やサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンなどに出展しています。31年以降には二科展にも出品するなど、次々と作品を発表していきます。そんな高崎に目を付けたのが、藤田嗣治でした。

当時の藤田は面相筆による線描をいかした、透き通るような技法によって名声を高めており、モンパルナスにおいても経済的に成功を収めた数少ない画家のひとりでした。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙されるなど、藤田の画家としての地位はパリで確実なものになっていました。そんな藤田は回りの画家たちには厳しく、辛辣なことで知られていました。しかしそんな藤田が将来を属目したのが高崎だったのです。
また高崎は「バロン薩摩」とよばれた薩摩治郎八にも注目されていました。薩摩は東京日本橋で巨万の富を築いた薩摩治兵衛の孫として生まれ、オックスフォード大学で学んだ西洋の文化に精通した人物でした。1922年にはパリの16区の高級住宅街に豪華な住居を構え、カンヌやドーヴィルなどのリゾート地を行き来する生活を送っていました。こうした生活の一方で、パリで活躍していた日本人芸術家を支援したことでも知られており、その中には藤田嗣治や高野三三男、そして高崎剛も含まれていました。

藤田嗣治や薩摩治郎八らから励ましを受け、精力的に制作活動を行っていた高崎でしたが、1932年には体調を崩し、パリ16区の薩摩の住居でわずか30歳の生涯を閉じることになってしまいます。日本大使館へ高野三三男が死亡届を提出し、告別式では薩摩が弔辞を述べ、若く才能のある画家の死を悼みました。

■高崎剛の作品

将来を期待されながらも短い生涯を閉じた高崎。高崎の作品はキャンバスに金箔をはり、その上に特徴的な暖かみのある透明感のある油絵具を使用していくというもので、金箔をはるという行為からも高崎が経済的に大変恵まれていたことがわかります。また当時のモンパルナスでは複数の日本人が額を制作していたことが分かっており、高崎作品の額もオリジナルであることがほとんどです。
また高崎作品のモチーフは曲芸やサーカス、雪や花火、都市の光といった近代都市パリを象徴するものばかりでした。サーカス団員や動物たち、そしてそれを照らす光はどこか幻想的に表現されており、当時の日本人画家たちの夢の国であったパリの雰囲気を示しているかのようです。

《サーカス》 1929年

本作品は1929年に制作された油彩作品で、現在は日本の横須賀美術館に所蔵されています。白い馬に乗るオラウータンがフラフープを持ち、そこを虎がくぐる様子が描かれています。背景は赤黒く、サーカスに訪れた観客たちの熱気を表しているかのようです。

《軽業師 C》 1928年

本作品は1928年に制作された作品で、現在は目黒区美術館に所蔵されています。縦長のキャンバスの下には棒を支える女性サーカス団員がおり、その上ではうまくバランスをとりながら芸を見せる女性が描かれています。地上にいる人々は曲芸のすごさに驚きを隠せずにおり、大人も子どもも女性に注目しています。画面全体は《サーカス》と同じく赤黒く描かれており、サーカス場に集まった人々の熱気を示すとともに、どこか幻想的な空間にさえ思えます。

■おわりに

高崎剛は1902年東京に生まれ、裕福な実家の支援もあって1924年にはフランスに渡ります。制作活動はもちろん、「巴里週報」の発行に関わるなど、多様な活動を行った人物でした。金箔をキャンバスに貼る独特の技法などで注目を集め、精力的に制作活動を行い、その独特の表現は当時のパリで大変な名声を集めていた藤田嗣治や芸術家たちのパトロンであった薩摩治郎八らが注目するほどでした。
1929年にアンリ・ブロカが主催した挿絵入りの月刊誌「パリ-モンパルナス」の4月号には藤田の周辺画家についての記述があり、「高崎については生粋の江戸っ子、小柄、わんぱく、素晴らしい画家で大酒のみ」と記されています。そうした記述や作品からも、高崎が異国の地での生活を楽しみ、制作を行っていたことがわかります。近代都市パリをモチーフに描き続けたのも、そうしたパリでの生活を楽しんでいたからでしょう。
しかし高崎は1932年には30歳の短い生涯を閉じることとなってしまいます。独特の作風はこれまでの日本人洋画家にはない表現であり、高崎が長生きしていたとしたら、どのような作品を世に送り出していたのでしょうか。藤田をはじめとした多くの画家たちに惜しまれた短い生涯でしたが、高崎の作品は受け継がれ続けており、現在も日本を中心とした各地で見ることができます。

参考:高崎剛

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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