【GTO:現代社会の闇、いじめが横行する教育現場について】

日本の少年誌、週刊少年マガジンにて1997年より連載開始、2年後の1999年にテレビアニメ化した「GTO」。主人公、鬼塚英吉の予想を裏切る行動の数々と、等身大の中学生たちの姿、そして教育現場の実態を色濃く反映させた物語に多くの人々から関心が集まり、瞬く間に大ヒット。テレビドラマも2度に渡り放送され、未だ鬼塚英吉という存在は人々の心に深く刻まれている。
本作はいじめが横行している学校を舞台とし、いじめを行っている生徒、いじめられる生徒、そしてそれらを取り巻く大人の社会、学校という教育現場、これら全てを焦点に当てているため、作品を通じていじめとは何なのか、大人とは、教育現場の実態とは、と様々な問題を想起させる。現代では中高生らが起こしたいじめが大きな社会問題となり、自殺者も増えている。そこで、作品を振り返りつつ、いじめについて多角的に論じていこうと思う。

■あらすじ

主人公、鬼塚英吉は高校時代より喧嘩に明け暮れ、親友の弾間龍二と共に「鬼爆コンビ」として恐れられていた超絶ヤンキーである。数々の伝説を残した元ヤンキーは東京吉祥学苑の教員採用試験に挑み、そこで理事長である櫻井良子に目を付けられ、非常勤講師として採用された。任されたのは「学園内最悪」と称される問題児たちの巣窟、3年4組の担任であった。これまでの担任教師たちを退職や精神的に追い込む、名物「担任いじめ」が横行するクラス内で、鬼塚は非行や問題行動を起こす生徒たちと日々を過ごし、彼らの心を解いていくのであった。

■生徒たちが起こした所業

まずは鬼塚が担任をすることになった3年4組の生徒の中から、「担任いじめ」の主犯格、及び中心的人物を数名ご紹介する。また、彼らが心に抱えている問題についても触れていこう。

・神崎麗美

3年4組の中でもとりわけ目を引く容姿の神崎麗美。金髪にオッドアイ、さらにIQ200の超天才であり、文部省認定の特別待遇児という高スペックな少女だ。物語序盤は不登校だったが、親友である相沢雅に「担任いじめ」を決行すると知らされると登校するように、その顔を鬼塚の前に現したのである。
彼女は持ち前の頭脳を使い、証拠を一切残さずに授業を妨害する「授業テロ」を得意とする。また、同じく頭脳明晰、IT関連に強い菊井善人と共にターゲットの個人情報を収集、暴露することで精神的にも、社会的にも追い込んでいく戦略的いじめを行う。

麗美が「担任いじめ」を行う、ひいては教師という存在を目の敵にするのは、小学校時代の担任教師にされた、とある出来事が原因。麗美は実は精子バンクを利用して造られた、試験管ベビー(※)である。そのため特徴的な容姿と飛び抜けた頭脳を備えているのだ。この事実を周囲に知られると波紋を呼ぶ恐れがあることから、担任教師には告げたものの秘密にしてもらうよう、入学時に約束をしていた。しかし担任教師は当時のクラスメイトの前でその真実を暴露。まだ幼かった麗美は「教師」という存在が如何に低俗で、無知で、相手の気持ちを慮らないモノであるか身を持って体験、そして嫌悪するようになったのだった。

そうしたことから鬼塚をターゲットとした「担任いじめ」のメンバーに加わるも、鬼塚は意にも介さずあっけらかんとしたもので、さらに反撃までするという恐るべき精神力を見せた。そして課外授業にて麗美は陥落、鬼塚に心を開くようになる。鬼塚という「常識の通じない教師」に対面し、それまで抱いてきた「教師という存在」自体への考えを改め、以降、鬼塚の強力な味方となったのだ。その思いは恋愛感情にまで発展し、駆け落ちまで狙う描写が描かれている。
また、拗れてしまった親友、雅との関係も鬼塚という大きな存在を支えに徐々に持ち直し、当初は他者に対して排他的であった態度も柔和なものへと変化。年相応の、大人に甘えるという行動まで現れ、無邪気に笑いながら学校生活を送るようになったのだった。

※上記で「試験管ベビー」という単語を用いたが、現在では「体外受精」という単語で広く知れ渡っている。筆者は試験管ベビーについて、未だ社会的に広く受け入れられていない実情を加味した上、ここでは私見及び言及はしないものとする。

・村井國男

村井國男、通称「マザコン村井」。色黒、角刈り、金髪とテンプレートに当てはめたようなヤンキー少年である。彼は「担任いじめ」の中心人物であり、雅、麗美、菊池ら主犯格と共に鬼塚を含め、歴代担任教師たちに執拗ないじめを行ってきた。
しかし根は良い奴で、義理堅くもある。そしてヤンキーにありがちな一本気のある、素直で実直な性格の持ち主。それ故に新参者の鬼塚には度々突っかかっていたが、関わる内になんだかんだと世話を焼かれ、次第に慕うようになった。

また、マザコンという渾名が付くほどの母親思い。というのも彼は母子家庭で育ったから。村井の母親、樹里亜は中学生の頃に國男を妊娠、しかし妊娠が発覚するや、相手は蒸発。女手1人で國男を育てていくことを決意したのだった。その恩や、母親がどれだけ苦労をしてきたかを知っているため、村井は母親のこととなると見境がなくなる。しかしそれも全ては大切な母親への思い故の行動であるため、母親も、鬼塚もそんな村井の根の部分は腐りきっていないと信じているようだ。

・菊地善人

麗美と同じくIQが高く、3年4組「担任いじめ」の参謀役を担うのが菊池義人である。IQが高いだけでなくIT関連技術も高いため、様々な情報を入手してターゲットを追い詰めていく。特に合成写真造りやクラッキングはお手の物であり、鬼塚には教頭、内山田とのホモ写真を作成してばら撒くという行為を行った。
しかしこれに対し鬼塚は、あろうことかその合成写真の精度に目を付け、菊池に成人本を元に合成写真の作成を依頼。意表を突かれた菊池は鬼塚に対し「面白そうな奴」という印象を抱き、味方につくことに決め「担任いじめ」からは手を引いた。

3年4組のメンバーは皆、暗いバックグラウンドを抱えている。それ故に人間不信になり、大人など信じられないと思い、担任教師を排除してきた。そこを鬼塚に救われ味方となっていくのだが、唯一菊池は異なる。特別何かしらの事情を抱えているわけではなく、鬼塚に救われたというエピソードもない。単純に鬼塚という人物を気に入ったことから味方に付くという、特殊な人物である。

・上原杏子

最初は澄ました顔をして登場した杏子。本作では代表的ないじめを行った張本人だ。
杏子は物語の初期の方のエピソードとして描かれた、吉川のぼるのいじめの主犯である。クラスの中でも弱くて影の薄い吉川を嫌っており、2年の頃からいじめを行っていた。その内容は吉川を全裸にして写真を撮り、誰かにバラしたらその写真もばら撒くといった下劣なものである。杏子は吉川のことがただ何となく気に入らない、それだけの理由でこれだけの所業を行ったのであった。

吉川は数々のいじめにより精神的に追い詰められていき、とうとう自殺未遂を図る。それにより鬼塚にこれまでの行いが知られ、自身が吉川にしてきことと同じような辱めを受け制裁を下された。そこで杏子はターゲットを鬼塚に変更、PTA会長である親の職権を使い退職に追い込もうと目論む。しかしこれは失敗に終わり、そこで一度はいじめを止める。
だが、根に持っていた杏子は修学旅行の際に再び吉川いじめを決行。吉川を誘拐しようとしたが、まさかの自分も一緒に迷子なるという不測の事態に追い込まれる。そのときに吉川に助けられ、これを機に吉川に好意を抱くように。その後は素直になれないために強い当たりをすることはあれ、それまでのような卑劣ないじめをすることはなくなり、問題は収束したのだった。

・相沢雅

本作のキーパーソンとも言えるのが雅である。容姿や成績、家柄にも恵まれた少女であるが、3年4組内で名物と化していた「担任いじめ」の主犯が雅なのだ。鬼塚が着任する前からも過激な嫌がらせを度々繰り返し、退職、自殺に追い込んだ教師は数知れず。相手の精神を壊すことなど、何とも思っていない。

その動機は教師という存在を憎んでいるから。教師を憎む理由は原作とテレビアニメ版で異なるが、ここでは原作に則り解説していく。雅の家庭は父親の浮気により崩壊寸前で、雅は当時の男性担任教師を心の拠り所にしていた。しかし担任教師は「教師と生徒の恋愛は許されない」との考えから、雅を遠ざけるような行動をとる。それは雅にとって「裏切り行為」に他ならず、担任教師に仕返しをすることを決意、「教師に暴行」されたと嘘の情報をクラスメイトに流した。結果として担任教師はクラスメイトの1人から重傷を負わされ、退職へと追い込まれる。雅にしてみれば、少し相手を困らせてやろうという程度の軽い気持ちだったのだが、大事に発展してしまったことから後に引けず、現在に至るまで担任いじめを行ってきたのだった。

鬼塚に対しても嫌悪感を露わにし、数々の嫌がらせや、時には傷害事件ギリギリのようなことも行うが、如何せん相手は人間離れした生命力を持つ男。全く通用せず、雅のいじめは不発に終わることが多かった。

最終的には鬼塚のおかげで家庭問題は解決するものの、友人たちとの確執や、これまで行ってきた悪行の責任をとろうと自殺を企てる。しかしこれも鬼塚の身体を張った行動により助けられ、一命を取りとめる。そうして本当の意味で鬼塚を信頼するようになり、クラスメイトともいじめのなかった頃のような付き合いができるようになり、事態は収束したのであった。

・吉川のぼる

最後に、吉川のぼるの紹介を行う。
彼は加害者でなく被害者なのだが、いじめをきっかけに自殺を図った。校舎の屋上から飛び降りるも、鬼塚が身体を張って受け止めたおかげで助かる。その後は鬼塚を慕うようになり、徐々に性格も明るく変化、友達もできるようになっていった。外見にも変化が現れ、自分をいじめていた杏子から恋心を抱かれるようになるまでに成長。杏子の思いを知ると、それまでいじめられていた相手にも関わらず受け入れる姿勢を見せ、その懐の深さ、優しさ、紳士的対応が話題を呼んでいた。
いじめ主犯格の生徒たちとは対極的な存在だが、「自殺未遂」という最終手段を取った人物として記しておく。

■いじめが横行している学校の実態

これまで「担任いじめ」を決行してきた東京吉祥学苑3年4組の主要メンバーを取り上げてきた。彼らは所謂「不良」として扱われる生徒たちで、一癖も二癖もある問題児たち。ことの発端は1年前の相沢雅が起こした些細な出来事であったが、それが根付いてしまい3年に上がった現在まで「担任いじめ」が継続して行われていたのだった。

本作に登場する生徒たちは、皆屈折してしまっている。幼い頃に他人から裏切られた者、過保護すぎる親に甘えた者、周囲に流される者、それぞれが、およそ「正常」とは少し逸れた育ち方をしてきてしまったからだ。
生徒らは口を揃えてこう言う。「大人のせいだ」「社会が悪い」と。自分たちの非を認める傍ら、絶対的に悪であるのは大人、社会、それら全ての「システム」だと。一方的に周囲から遮断されたと思い込み、周囲に対してその怨念を抱く。中には3年4組の生徒たちのように実際の行動でその思いを表面化させる者もいるが、内にしまったままの者も大勢いることだろう。こうした思考や行動は若者特有のものである。言い換えるならば、「若者の特権」だ。それを如何なく行使した状態を描いているのが「GTO」という作品となる。

学校内で起こる、若者たちの大人への反抗心は、現代の社会問題や教育問題に通ずる。
まず、社会問題の点について触れてみよう。
いじめが横行する社会問題とはどのような状態であるのか。単純に善悪だけで判断するのなら、「悪」と答える人が多いと予想される。しかし、それが真の解であるのか。

若者は理由なくいじめを行わない。「単純に面白そうだったから」「何となく周りがやっていたから」「興味があって」などという意見が度々耳にされるが、これだって立派な「理由」のひとつだ。鬼塚が担任を務める生徒たちは中学3年生、つまりは思春期真っただ中の多感な時期である。だからこそ、こんな些細な、理由にもならない理由でも、彼らにとったら十分すぎる「いじめを行った理由」になってしまう。

思春期は避けて通れない成長段階の1つである。心理学者、エリクソンによると、思春期の発達段階においては「同一性の獲得」というのが1つの課題とされている。これはアイデンティティの確立、つまりは自分とは何者か?という問いに対する自分なりの回答を見つけ出すことを意味する。
この時期は、自分の身体が大人のものへと変化していく時期であり、性的にも発達してく。その自分が変化してく中で、新たな自分を受け止めるだけでなく、大人の社会システムにも徐々に適応していかなければならない。周囲は自分を大人扱いし出すので、それに対するこれまでとのギャップを受け入れることも求められ、さらにはこれまでとは違った、所謂「大人の対応」も求められるのだ。また、この時期の子どもたちは自分を「大人」だと思い込みだす。そして自分だけでできると強がる時期でもある。不安ながらも着実に1人立ちへの道を進みながら、親離れをより顕著なものへと、具体性のある行動へと移していく。これら全てを受容し、同時に行っていかなければならないのに、子どもたちの心はホルモンバランスなどに左右され、とても不安定な状態にあるというのが大きな特徴だ。

自分という存在を確立するということは、とても難しい。大人になってもアイデンティティを確立できずにいる人は、現代にも大勢いる。自己を確立するためには様々なモノ、コト、思考に触れ、自分なりに解釈していかなければならない。そのため、必然的に好奇心は高まり、善悪問わず様々な事柄に出会う機会が多くなる。そうして未完成な価値観の中で「新しいモノ、コト、思考」を自分なりに解釈してくのだから、「多感」となるのも当然のことだ。

こうした不安定な状態にある子どもたちの実態に、何故社会は目を向けないのか、ということを、ひとつの焦点に当てたい。
何故大人たちは、子どもたちのそもそもの不安定な状態に目を向けない、理解しないのか。また、そういったこの時期の真の姿を見ることなく、表面上ばかりで可愛がったり、逆に叱責したりするのか。思春期以前より心に大きな傷を負っていた場合、その根本に近付こうとする姿勢を大人たちは見せているのか。社会という大きなシステムの中で、「子ども」というカテゴリーに分類し、「子ども」は皆同一だと勘違いをしているのではないか。これら点を改めて考えた上で、善悪を判断すべきではないのか、と筆者は考える。

勿論、現実問題として1人ひとりにフォーカスを当て、心に寄り添い、理解し成長させるなんてことは不可能だ。身近な人間にだって、他者を理解し受け止めるという行為は難しい。しかし、だからといって、それが子どもたちを同一に、適当に扱って良い理由にはならない。
「不適切な行動ばかりする子どもだから」、そのような表面の行動にばかり目を向け、内面に目を向けない、これは大人の典型的な行動パターンだ。これでは子どもが心を閉ざすのも無理はない。自分を理解してくれないと思い込んでしまうのも当然の結果だ。
そして、3年4組の生徒たちはそういった扱いを受けていたからこそ、「担任いじめ」を行うことを辞められなかったのだ。大人から裏切られ、少し相手に仕返しをしたかっただけなのに、それが大人たちには「問題」とされ、「問題児」のレッテルを貼られる。そして排他的に扱われ、「問題児」という一括りの中に閉じ込められてしまう。正に悪の循環だ。

こういった大人が子どもに向ける姿勢は、社会に当然のように蔓延っている大きな問題だ。しかしそれが問題視されないのは、大人が子どもを軽んじているからでない。「それが当然」と刷り込まれているからに他ならない。周りの人間から、組織から、社会から。だからこそ、隠れがちになってしまうこの社会問題を、本作を通して今一度見直すべきだと、気付くべきだと考える。

こうした社会問題を集約させたような場所が、教育機関にある。子どもたちは学校に通い、主にそこで鬱憤を晴らしたり、何かしらの行動を起こしたりし、教師らからそれ相応の対応を取られるのだから。だから、子どもたちを直接的に屈折させる原因となってしまうのは教員たち、となってしまうのだ。

教育の現場は戦場だ、などと言う言葉を耳にする。
それもそのはず、近年、仕事量と給料が見合わないことが問題とされ、教職を志願する者は減少傾向にある。また、下手に生徒に強い発言をするだけでも己の首が飛びかねない。非常に弱い立場でありながら、自分を守ってくれる者はおらず、おまけに激務薄給。そんな仕事に就きたいと、客観的に思う人間は希少であろう。教師という職に強い憧れと強い信念の元に教職を目指さないと、例え一度教職に就いたとしても途中で挫折してしまうことが容易に予想される。

このような戦場と謳われる教育現場で、いじめが起こったとしよう。その場合、教員がとる行動はどのようなものだろう。今回は本作に登場する教頭、内山田を例に考えてみよう。
内山田は3年4組の生徒たちを煩わしく思っている。そして、目の敵にもしている。生徒と思っていない節さえ伺える。冷酷な言い方をするならば、生徒らを「社会のゴミ」とまで思っているだろう。それは何故か。推測されるに、理想の生徒ではないからだろう。思い描いていた教育ができない、教師としての立場を示せない、彼らはそれを受け入れない、だから疎ましく思うのだろう。さらに、子どもなどにコケにされたような態度を取られることも内山田のプライドに触るのだろう。これらの理由は大いに納得できる。誰だって年端のいかない若者に理不尽な罵詈雑言を浴びせられ、コケにされ、見下され、自分の思い描いていた教育をさせてくれない相手が目の前にいたら、疎ましく思うに決まっている。

しかし教育の現場ではそうはいかない。
教育、「教える」に「育てる」。この意味をじっくり追求するとなると、非常に難しいことであるが、教師たちは子どもたちを「教育」しなければならないのだ。社会のルール、様々な倫理観念、集団行動の意義など、勉学以外のことも含め包括的に「教え」、それだけでなく「育て」なければならない。文字にするとたったこれだけなのに、その如何に難しいことか。そもそもとして「教える」と「育てる」に関しての考え方も人によって異なるであろうし、教育において正解の形は存在しない。ただ、真摯に生徒と向き合えばそれで良いかというと、それも違う。
だからといって、目の前で起こっているいじめという大きな問題から目を背け、抜本的な解決策を講じることなく、ただ1つのクラスに問題児たちを集約させ、厄介払い。これは明らかに間違いだ。つまり、内山田がナチュラルに起こしている行動は間違いだと考えられる。

しかし責めるべきは内山田ではない。
彼だって自分の尊厳や首、家族も背負っているのだ。多くの大人が保守的に動いてしまうのと同様に、内山田だって保守的な精神の元、行動を起こしていることが考えられる。本質的に問題と対峙しなければならないのは、こういった問題を隠蔽しようとする教育委員会にあるのではないか。事が公になれば教育委員会は社会から壮絶なバッシングを受け、立場はなくなる。それでも、生徒たちを守るのは第一に現場としても、最後の砦として教育委員会が設立されている以上、事実を揉み消すのではなく、向き合っていく姿勢が望まれるだろう。社会からの圧力や保身、様々な要因があるにしても、目を背けるのみならず、隠蔽工作までするのはご法度だ。

昨今ではいじめによる自殺が多発、社会的ニュースとしても多く取り上げられている。その数が増えている分、曖昧にすることなく、しっかり問題に直面するべきだという姿勢が強くなってきていることは伺えるが、心苦しいことに、事が公にならず、揉み消されている問題もまだまだ多くある。

本作の中でもいじめを受け、自殺を企図した生徒がいる。それだけ心を追い詰められているのにも関わらず、問題から目を背けられれば、自殺の決定打になっても何ら不思議はない。ここでは内山田を例に挙げ、彼の行動を誤っているとして論じたが、やはり、いじめが蔓延っている「学校」という小さな箱の中で、内山田のような行動は適していない。実際の教育現場でも、内山田のような態度をする教師が大勢いるから、自殺をする子どもたちが後を絶たないのだろう。

教師たちにも言い分はある。大人には大人なりに抱えるものも、悩みもある。しかしそれが死者を生み出すことに直結する場合、果たして優先させるべき事柄なのだろうか。その答えはその者にしか導き出せない。何故なら、他者の大切にもっている価値を、他人が決めることはできないからだ。しかし、教育現場では目を背けず、子どもたちと向き合ってほしいと願うばかりだ。ほんの少しでも気を向けたとき、子どもたちは必ずそれに気付く。子どもたちは、大人が思っている以上に聡い生き物だからだ。そうして事実が隠されずに、周囲が気付いてくれたならば、その先の道は開けることだろう。

子どもたちは、大人を求めている。だからこそ、いじめを含めた目立つ行動をするのだ。「大人になりたい」「もう大人だ」と考えていても、やはり、最終的には大人に守ってほしいのだ。また、子どもたちは本当に傷ついたとき、「傷ついた」と言えない。その隠れた傷と、弱さと、願望に、気付いてほしい。

■「教師」鬼塚栄吉の対応

ここまで長々と語ってきたが、本作では鬼塚英吉という教師が奮闘する。作品名「GTO」は「Great Teacher Onizuka」の頭文字をとったもので、その名の通り、鬼塚はグレートなティーチャーとして生徒たちと向き合っていくのだ。

鬼塚は喧嘩に明け暮れ、親友の弾間龍二と共に「鬼爆コンビ」として恐れられていた伝説のヤンキーである。常識もなければ学もない。教員採用面接の際に作成した履歴書もデタラメな記述ばかり。教師を目指したのも、「教師になれば女子高生と付き合える」という下心から。
そんな人として問題大アリな鬼塚だが、芯は通っており、何より生徒を大切に思う。そして脳内まで喧嘩で埋め尽くされたような猪突猛進という方法しか知らないため、読んで字のまま、体当たりで生徒たちに向き合っていく。難しい理論は通用しない、自分も持ち合わせていない、しかし、ただひたすら生徒たちを信じ、同じ目線で立とうとする。その純粋すぎる姿勢が、胸の内に色々な闇を抱えた3年4組の生徒たちに響いていくのである。

生徒たちは、これまで大人という存在、教師という存在に酷い仕打ちを受けてきた。「汚い大人」というテンプレートのような大人たちに排他的に扱われ、裏切られ、見限られてきた。
そんな中での鬼塚の態度は、彼らが真に求めていた接し方そのものだったのだった。基本的に奇行や想像を絶する型破りな行動しかしない鬼塚だが、この意表を突いた行動も、生徒たちの心を解す要因となっているようだ。ときには真理をつくような言葉を吐き、ハッとさせられる場面もある。作中の生徒たちばかりでなく、視聴者の我々さえも心を奪われてしまうのだから、鬼塚英吉という教師は侮れない。

何より大きいのが、当の本人が利益や自己の保身のためにしている節が一切見られないという点だ。邪な気持ちなど微塵もなく、ただ目の前の生徒という1人の人物と向き合う、そしてみんなで笑い合う、ただそれだけのために鬼塚は行動する。この穢れを知らない行動は、荒んだ生徒たちの心にどれだけ尊く響くものだろうか。スケベな下心があり、ときには自分の欲求に走ることもあることは否めないが。それをもってしても、最後には捨て身で生徒を守る、そのただ1つの真実が、生徒たちにとっては何より大きなことなのだろう。

これらの結果を生み出すのは、鬼塚の芯が1本通った性格だけに留まらない。不死身体質を身に付けているというのも大きな要因だ。
喧嘩は作中最強クラス、上述の通り、かつてに伝説とまでなっている存在なので恐れも知らない。対殺傷能力を備えた武器に関しても、車に轢かれても死なないし、高いところから落ちても立ち上がる。拳銃で撃たれても死なないといった、人ならざる生命力を保持している。強靭なんて言葉では片付けられない肉体は、生徒を助けることにも大きく役立っているのだ。
屋上から落ちた生徒を助けるために捨て身になって、自分まで落下することもあれば、バイクに生徒を乗せて大きな橋から落ちるという所業まで。鬼塚が流血しているシーンはもはや恒例で、頭からピューっと血を吹きだしているなど、ありふれた光景と化している。その恐ろしき肉体で、多くの修羅場で生徒の身を守り、その捨て身の行動もまた、生徒たちにとっては信頼に値するとの判断材料になっているのだろう。

また、生徒のためならば誰を敵に回すことも厭わず、誰にでも喧嘩を売る姿勢、自分の身の安全など顧みず、とにかく生徒らの身を守るために身体を張る、これらの精神も全て鬼塚ならではの奇行であり、鬼塚なりの生徒への向き合い方である。考えてもみてほしい。自分のために、社長に対して「お前は間違っている」と言ってくれる上司がどこにいるだろうか。自分が自殺をしようと屋上から飛び降りようとしたとき、自分を助けようと自らまで屋上から飛び降りる人物などいるだろうか。
鬼塚は、そんな常識ではあり得ない、けれども誰もが心の奥底で願っている「守られたい」という願望を体現する。だから、鬼塚は格好良くて、生徒からも信頼され、彼らの心を砕くことに成功したのだ。

■さいごに

「漫画、アニメのキャラクターで実際の教師になってほしい教師キャラ」という類のアンケートがあると、必ずといって良いほど名の挙がる鬼塚英吉。常識を一切持たないが、心に宿した純粋で真っ直ぐな思い1つを武器に、多くの生徒たちに豪快な力技で接していく。その真っ直ぐすぎる思いは、心に闇を抱えている生徒たちに届き、人間不信に陥っていた彼らを次々と救っていく。

実際に作品に触れていくと、鬼塚の奇行の数々は大人の常識的にあり得ない。しかし、その型破りな方法は決して間違っているものではない。実際、鬼塚のような教師と巡り合えていたら、と想像した方は大勢いることだろう。それだけ、破天荒だろうと、あり得ないことだろうと、鬼塚という絶対なる存在は大きな影響力を持っているのだ。

悲しいことに、現代の教育現場ではいじめが次々と起き、尊き命たちは悲鳴を上げているのが現状だ。大人の社会の実態、教育現場の実態、数々の問題が蔓延する中で、救われない命もある。しかし、本作では鬼塚という1人の人間によって、その常識という枠からの脱却を描いた。
現代で、鬼塚のように振る舞える大人は皆無であろう。しかし、いじめという問題に直面した教育現場に、今一度、鬼塚のような旋風が巻き起こることを願うばかりだ。また、等身大の生徒らの描写にも注目すべきである。彼らは声を張り上げ、行動を呈し、その心の声を伝えようとしている。

最後に、これまで「いじめ」について論じてきたが、全てあくまで筆者個人の見解であって、加害者も、被害者も、それを取り巻く大人たちも、その根幹にある社会システムについても、善悪を問おうとは思っていない。ただこういう実態があり、誰に対して責を求めるわけでなく、ただ実態について迫ろうとしたという点を、末筆ながら付記しておく。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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