ピエト・モンドリアン:「冷たい抽象」

ピエト・モンドリアンは1872年にオランダのアメルスフォールトに生まれた画家です。ワシリー・カンディンスキーやカジミール・マレーヴィチと並び、抽象絵画の創始者として知られています。水平と垂直の直線のみで分割された画面に赤と青、黄色の三原色のみを用いるモンドリアンの作品は「冷たい抽象」とも称され、のちの近代デザインにも大きな影響を与えました。

■ピエト・モンドリアンとは

ピエト・モンドリアン(本名ピーテル・コルネーリス・モンドリアーン)は1872年、オランダのアメルスフォールトに生まれました。両親は厳格なプロテスタントで、父親は地元の小学校の教員を勤めていました。またモンドリアンは幼少のころから芸術に関心を抱いており、素描の教師であった父や叔父フリッツ・モンドリアンとともに、川辺でスケッチ画を描いていたといいます。

1892年にはアムステルダム国立美術アカデミーに入学。美術大学での教育は伝統的な美術教育でしたが、卒業後は徐々に印象派やポスト印象派、特にゴッホやスーラの影響を受けた作品を制作するようになります。

(Public Domain /‘Composition n. XIII/ Composition 2’by Piet Mondrian. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1911年にはアムステルダムで開催された美術展で目にしたキュビスムの作品に衝撃を受け、パリに向かう決心をします。1912年から1914年にはキュビスムを学び、平面的・幾何学的な作品制作に取り組んでいきます。その際モンドリアンは徐々に抽象化に興味を示すようになり、1912年に制作された作品では三角形、四角形、円のみが描かれるという抽象化とシンプル化がすすめられていました。

キュビスムのみならず、精神的な探求も絵画に取り入れようとしたモンドリアンは神智学を学び始めます。神智学を学ぶことによって、絵画は合理性の高い抽象的な方向に向かうことになり、モンドリアンは独自のスタイルを築いていきます。

1914年には第一次世界大戦が勃発。戦争中はオランダのラーレンにある芸術コミュニティに滞在し、そこでのちにオランダ前衛運動の中心人物となるバート・ヴァン・デ・レックやテオ・ファン・ドゥースブルフと意気投合します。特にバート・ヴァン・デ・レックの作品は原色のみを使うという抽象化をより進めたものであり、モンドリアンは「それまでの私の技法は、多かれ少なかれキュビスムを踏襲していたものだが、バート・ヴァン・デ・レックに出会ってからは彼の技法の影響が大きくなった」と語っています。

1917年にはオランダ前衛運動「デ・ステイル」を創設し、機関誌「デ・ステイル」も発行します。デ・ステイルのリーダーであったドースブルフの考えは、絵画よりもむしろ建築を重視するものであり、垂直と水平だけではなく対角線も導入するものであったため、モンドリアンは対立し1925年にはグループを脱退することになってしまいます。デ・ステイル自体は1928年まで刊行され、のちのディック・ブルーナの「ミッフィー」やイブ・サン・ローランの「モンドリアン・ルック」などに大きな影響を与えました。

1918年に戦争が終結すると、モンドリアンはフランスに戻ります。第一次世界大戦後パリではアートシーンが盛り上がっており、モンドリアンの作品も徐々に注目を集めるようになっていきます。

このころ制作をはじめたのがグリッド・スタイルで、1919年後半にはグリッド状を基盤にして作品を制作するようになり、1920年には明確に作品に用いるようになっていきました。

(Public Domain /‘Composition A’by Piet Mondrian. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

初期のグリッド・スタイルは長方形を中心に構成されており、使用されている色は黒ではなく灰色になっていました。ひとつひとつのマスも小さく、ほとんどのマスが着色されているのもこの時期のグリッド・スタイルの特長です。

1920年から1921年になると黒い太線に区切られたマスの一つ一つが大きくなっていき、マスの大半は着色されず、白いままで残されるようになっていきます。1920年代半ばには正方形のキャンバスを45度傾けて描いた「ひし形」シリーズが描かれるようになります。

1938年にはナチスドイツの勢力が強まっていき、モンドリアンはロンドンに居を移します。1940年にはナチスの侵略はオランダにまで及び、次いでパリも陥落したことに危機感を感じたモンドリアンは、ロンドンからアメリカのニューヨークへと移ることになります。

ニューヨークについてからのモンドリアンの作品は激変していき、赤・青・黄色の線が複雑に垂直交差し、線が多くなっていきます。この頃の作品は見た目が地図のように見えることが特長です。またこの時期モンドリアンは精神的に不安定で、手が腫れ上がるまで長時間絵を描き続けていたといいます。

1944年には風邪をこじらせ肺炎になり、第二次世界大戦の終結を見ることなく71歳でその生涯を閉じました。現在はブルックリンのサイプレス・ヒルズ墓地に埋葬されています。

■モンドリアンの作品

モンドリアンの作品は赤・青・黄色の原色と垂直線を用いた抽象表現が特徴的な作品です。しかしそれに至るまではさまざまな表現を試行錯誤しており、そうした作品をみていくことで抽象表現の成立を感じ取ることができます。

《エレ近郊の森》1908年

(Public Domain /‘Woods near Oele’by Piet Mondrian. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1908年に制作された作品で、現在はハーグ市立美術館に所蔵されています。実験的な描き方を試すようになった時期に制作された作品で、激しいタッチで森の情景が描かれています。

作品を見て特に感じられるのがモンドリアンの色彩への注意です。木々の合間から太陽の光がこぼれる森の色彩を表現しようとモンドリアンは作中で色彩実験を繰り返しており、のちの抽象表現主義につながる色彩への強い関心を感じさせます。

《花盛りの木》1912年

本作品は1912年にモンドリアンがキュビスムに影響を受けていた時代に完成させた作品のひとつで、黒い網目のような線が用いられています。1912年以降こうしたアアーモンド形の形状は《灰色の木》や《花盛りの林檎の木》でも用いられており、木と葉の抽象化が推し進められています。

あまりに抽象化が推し進められているために、一見して花盛りの木のイメージを読み取ることはできませんが、上部は薄紅色で、下部には緑が用いられていることから、木々の合間からこぼれる色と光のイメージが再現されていることがわかります。

《ブロードウェイ・ブギ・ウギ》1943年

(Public Domain /’Broadway Boogie Woogie’ by Piet Mondrian. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1943年に制作された作品で、現在はニューヨーク近代美術館に所蔵されています。初期作品と異なり、多くの小さなカラフルな正方形で構成されており、ニューヨークの高層ビルの窓や地下鉄の路線図から着想を得たという説があります。またモンドリアンはブギウギを心から愛していたことでも知られており、音楽のリズムを表しているとも言われています。

■おわりに

ピエト・モンドリアンはオランダに生まれ、ワシリー・カンディンスキーやカジミール・マレーヴィチらと並んで、抽象絵画をはじめて描いた画家のひとりです。オランダの前衛芸術運動「デ・ステイル」などに参加しながら独自のスタイルを発展させていき、ついに垂直と並行の直線と赤・青・黄色の三原色をもちいたシンプルなスタイルにたどり着きます。

その後ナチスドイツの台頭もあり、モンドリアンの制作の場はニューヨークに移ることになりますが、《ブロードウェイ・ブギ・ウギ》に見られるように、新しい土地ニューヨークからもインスピレーションを得てさらに新しい作品を制作するなど、晩年もその制作意欲が衰えることはありませんでした。モンドリアンの芸術はのちの近代デザインに受け継がれ、現在もなお注目を集め続けています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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