ワシリー・カンディンスキー:抽象絵画の創始者

ワシリー・カンディンスキーは、1866年にロシア帝国期のモスクワで生まれました。抽象絵画の創始者と言われた彼の生涯は、どのようなものだったのでしょうか。

■ワシリー・カンディンスキーとは

ワシリー・カンディンスキーは1866年、紅茶商人である父ヴァシリー・シルヴェストロビッチ・カンディンスキーと母リディア・ティチーヴァの間に生まれました。幼い頃から色彩に興味を持つ子供で、青や明るい緑、白などには特に興味を示し、それが後の抽象絵画の下地になったのではないかと言われています。

1886年になるとモスクワ大学へ入学し、法律や政治経済を中心に様々な学問と接していきました。1889年には民俗学研究のサークルに入り、各地に調査旅行へ向かった際、カラフルな装飾が施されたロシア農民の家や家具などに強い関心を示しています。1892年になると法律国家試験に合格し、モスクワ大学の講師資格を取得しました。法律の教授を目指しながらも、絵画への情熱を隠すことが出来なくなったカンディンスキーは、1896年30歳の時にミュンヘンで絵画を学ぶ決心をします。

(Public Domain /‘Self-portrait’by Franz von Stuck. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックに師事し、1902年にはベルリンの分離派展に出品、1904年からはパリのサロン・ドートンヌにも出品するなど、精力的に制作活動を行っていきました。

カンディンスキーは、ミュンヘンを中心に活動する表現主義のグループ「ミュンヘン新芸術家協会」を創設し、従来の芸術にはない、抽象絵画の方向性を模索し始めます。しかし、グループに参加したメンバーたちと思想が合わず、1911年に脱退しています。

(Public Domain /‘August Macke’Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Franz Marc’Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Gabriele Munter’Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

その後、アウグスト・マッケやフランツ・マルク、アルベルト・ブロッホ、ガブリエレ・ミュンターらと「青騎士」を結成し、芸術作品ばかりではなく、デザイン、宗教芸術、音楽、詩、劇なども紹介する年刊誌を発行します。また、ドイツのみならず、ロシアやフランス、イタリアからの寄稿も掲載するなど、国際的な芸術雑誌としても発展していきました。

ロシア革命の終結後、1918年には当時のソヴィエト連邦の招待もあり、モスクワに帰郷します。当時のソ連では、ウラジミール・レーニンによって前衛芸術が「革命的」であると認められており、カンディンスキーはまさにそうした前衛芸術を体現する人物として招き入れられました。しかし、ヨシフ・スターリンの台頭によって前衛芸術が軽視されるようになり、前衛芸術家たちの立ち位置も危うい物になっていきます。ついにスターリンが共産党書記長に就任する直前の1921年になると、カンディンスキーはモスクワから離れざるを得なくなってしまいました。

次にカンディンスキーが向かったのは、ドイツのバウハウスでした。バウハウスは、建築家のヴァルター・グロピウスが校長を務める、建築やデザインの学校です。カンディンスキーは、初心者向けの基礎デザイン授業から高度な美術理論まで、幅広い授業を行いました。色彩の授業では、点と線に関する研究を行い、「点と線から面へ」という理論書を発表しています。こうした研究の成果は、後の抽象絵画を生み出す「起爆剤」の一つとなっていきました。

しかし、ナチス・ドイツの台頭によって、バウハウスは1925年にワイマールからデッサウへ移転、さらに1932年にはデッサウからベルリンへ移転することになりました。ついに、1933年には閉鎖へ追い込まれてしまい、カンディンスキーはパリへ向かいます。カンディンスキーが訪れた当時のパリでは、「印象派」と「立体派」が好ましい芸術と考えられており、抽象絵画は評価されない傾向にありました。そうしたこともあり、カンディンスキーはアパートで隠遁的な生活を送り、ジョアン・ミロ、ジャン・アルプ、アルベルト・マニュエリといった作家たちの展覧会へ足を運んでは、自宅のリビングで作品制作を行っていました。

この時期、カンディンスキーの表現は徐々に変化していき、作中に非幾何学的で有機的な形が現れるようになっていきます。また、色彩の取り入れ方も大きく変化しており、以前では決して見られなかった色彩の組み合わせを行っていました。これは、スラブ民芸からの影響が大きいと考えられています。

1941年には、フランスがナチス・ドイツの占領下になったにも関わらず、他の芸術家のようにアメリカへ移住する事はしませんでした。パリの郊外で制作活動を続け、1944年には最後の展覧会を開いています。そして1944年12月13日、動脈硬化により78年の生涯を閉じています。

■カンディンスキーの作品

カンディンスキーは、30歳の時から本格的に絵画制作を始め、抽象絵画を中心とした多数の名作を残しました。以下では、主要な作品を中心に、カンディンスキーの作品をご紹介します。

『Helen Mirren on Vasily Kandinsky』

(Public Domain /‘The Blue Rider’byWassily Kandinsky. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

《青騎士》1903年
これは、カンディンスキーが印象派に影響を受け、絵画を制作していた時期の作品です。後の1911年、彼が芸術運動の一環で発行した芸術雑誌には同じ名称が付けられています。

1896年30歳の時に、カンディンスキーは印象派の画家モネの「積みわら」という連作を目にします。その時は、作品に何が描かれているのか、理解する事が出来ませんでした。しかし、”絵画というのは正確に何が描かれているのか分からなくとも、その色や形だけでも人の心に強い印象を与えうるものなのだ”と感動したことから、画家を志すようになるのです。

こうしたきっかけで始まった彼の画家人生・初期頃に描いた作品の中で、最も重要とされているのが「青騎士」です。一見すると「白馬に跨り、疾走する一人の騎手」が描かれているだけのようですが、この作品は彼が描いた最後の印象派風絵画の一つであり、その後に辿る抽象主義の兆候を見る事が出来る作品なのです。

目を凝らしてみると、騎手が纏っている青いマントは、はっきりと確認出来ますが、彼の体は意図的に暈されています。こうして描く事によって、ある者は「ここには二人目の人物(おそらく子供)が描かれている」と主張するなど、作品に対して鑑賞者が参加出来る余地を与えているのです。このような特徴は、芸術運動「青騎士」での、「形象へのこだわりを捨てる」という理念にも通じています。

余談ですが、カンディンスキーは青色について「青は人間に思慮を呼び起こし、純粋さや超感覚的な物への憧憬を喚起する。青は空の色なのだ。」と著書で語っています。彼が描く作品の多くは難解そうに見えますが、その背景にロマン主義的な考えが隠れていると思うと、少し肩の力を抜いて向き合う事が出来るのではないでしょうか。

《円の中の円》1923年頃

(Public Domain /‘Circles in a Circle’by Wassily Kandinsky. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

カンディンスキーは、1923年から1933年までドイツのバウハウスで教職に就いており、絵画の幾何学的な要素への関心を高めていた時期でもありました。

幾何学的な形象と、繊細な色彩が調和したこの作品を含む同時期の抽象画に対し、アーティストのマルセル・デュシャンは「カンディンスキーは観客に新しい絵画の見方を開いた」と賛辞を送っています。鑑賞の際、作品に描かれている形象と色彩をただ見るのではなく、それらが互いにどう関係し合っているのかを観察する事が重要です。

この作品においては、直線と曲線、暖色と寒色の質感が対比されています。相反する性質で構成しながらも、それらを囲んでいる太くて大きな線によって、調和が生み出されているのです。

■おわりに

カンディンスキーは、もともと法律家を目指し、大学で学んでいましたが、芸術への情熱に突き動かされ、抽象主義の作品を制作していった画家です。「青騎士」でグループ活動を行ったり、ソ連で政治委員として働いたりと、前衛芸術家として多様な功績を残しました。しかし、バウハウス退職後のパリでは、ナチス・ドイツによる侵攻もあり、不遇な時期のまま亡くなってしまいます。

ナチス・ドイツの占領下となったフランスでは、カンディンスキーの作品を展示する事も、カンディンスキーについて語る事すらも許されませんでした。そのような状況でしたが、1967年には晩年のカンディンスキーを支え続けた事で、妻のニーナがレジオンドヌール勲章を受章し、名誉を回復していきました。

カンディンスキーは、アメリカへ移住することを拒み続けましたが、それはナチス・ドイツに対する究極的な反抗の姿勢だったのかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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