フェルナン・レジェ:ポップアートの先駆者

フェルナン・レジェは1881年にフランス、ノルマンディー地方のオルヌ県アルジャンタンに生まれた画家です。パブロ・ピカソやジョルジョ・ブラックとともにキュビスムの作品を描いていたものの、のちにキュビスムを離れ独自のスタイルを築いていきました。また版画や陶器、舞台装置など幅広い分野で作品を残しています。そんなレジェの生涯はどのようなものだったのでしょうか。

■フェルナン・レジェとは

フェルナン・レジェは1881年フランス、ノルマンディー地方の内陸部に位置するオルヌ県アルジャンタンに生まれました。1897年からはカーンの建築家のスタジオで修業し、1900年にはパリで建築製図工の仕事をするようになります。レジェは仕事をしながら装飾美術学校やアカデミー・ジュリアンに通い、独自の作風を確立しようと試行錯誤を重ねていきました。

そんなレジェに大きな影響を与えたのは、1907年にパリのサロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展でした。特に「自然を円錐、円筒、球として捉える」というセザンヌの言葉はレジェの作風に大きな影響を及ぼし、当時の前衛美術運動であったキュビスムに参加するようになります。

1908年になるとパリ、モンパルナスの共同住宅兼アトリエである「ラ・リューシュ」に住み着くようになります。「蜂の巣」とも訳されるこの住宅は、エコール・ド・パリの画家や彫刻家たちが集まり、芸術家同士のコミュニティを形成した場所です。そこに暮らしていた芸術家たちのほとんどが貧しい外国人であり、その中にはマルク・シャガールやモイズ・キスリング、マリー・ローランサンなどが含まれていました。

1910年になると当時の有力な画商であったカーンワイラーに認められ、1912年には初の個展を開催。1913年には画商であるカーンワイラーと専属契約を結んだことにより、画家としてのキャリアを確実にしていきました。

(Public Domain /‘Francis Picabia’by Guillaume Apollinaire. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain /‘Portrait photograph of Jean Metzinger’Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

また同時期にはフランシス・ピカビアやジャン・メッツァンジェらが参加していたセクシオン・ドールという前衛画家グループに加わり、1912年にはボエシー画廊で開催されたセクシオン・ドールのグループ展に参加しています。このグループは「ピュトー・グループ」とも呼ばれ、作品に色彩を取り入れてキュビスムの運動をより発展させようとしていましたが、長続きしませんでした。

1914年に勃発した第一次世界大戦にレジェも従軍しています。彼はそこで見た兵器の機能的な美しさに魅せられ、その後の作品には人物とともに機械がよく描かれるようになっていきます。このことは彼が自然よりも人間や現代文明に強く興味を持っていたことを如実に表しています。

(Public Domain /‘Pierre Jeanneret and Le Corbusier in Chandigarh’Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1920年になると建築家のル・コルビュジエと知り合い、コルビュジエ建築の壁画を担当するようになります。それをきっかけとして舞台美術などの仕事にも手を広げ、1923年にはダリウス・ミヨーのバレエ「世界の創造」の初演時の舞台美術を担当したほか、1924年には実験的な映画「バレエ・メカニック」を制作したりしています。

1940年になると第二次世界大戦の戦禍を避けてアメリカに居を移し、その後1945年に帰国。大戦後は壁画、ステンドグラス、舞台装置、陶器、版画、書物の挿絵などさまざまなジャンルの制作活動に取り組んでいきました。

■レジェの作品

レジェは当初ピカソやブラックといったキュビスムの画家と見なされていましたが、徐々にキュビスムの作風から離れるようになり、太い輪郭線や単純なフォルムを用いた独自の様式を築いていきました。そんなレジェの作風はどのように形作られていったのでしょうか。レジェの主な作品をもとに見ていきましょう。

《森の裸体》1909年-1910年

本作品は1909年から1910年に制作された作品で、現在はクレター・ミュラー美術館に所蔵されています。このころのレジェはセザンヌに影響を受けており、「全ての自然界の形は球、円錐、円柱に縮小することができる」という考えのもと制作活動を行っていました。この表現からキュビスムをもじって「チュビスム」すなわち「土管屋」と称されることもありました。

《メカニカル・エレメンツ》1920年

本作品は1920年に制作された作品で、メトロポリタン美術館に所蔵されています。レジェは元々製図工として働いていたことに加え第一次世界大戦に従軍したことをきっかけとして、機械に興味を持つようになっていきました。

本作品はそうした機械をモチーフとして描いたものであり、一見してはよくわからないものの機械のパーツを丸、楕円、曲線、斜線、長方形といった図形で抽象化して描いています。それぞれのパーツには先程の作品とは一転して鮮やかな色彩が施されており、これから機械の時代が到来することへの期待が感じられます。

■おわりに

フェルナン・レジェはフランス、ノルマンディー地方に畜産農家の息子として生まれ、製図工として働いたのち、画家として独立。パブロ・ピカソやジョルジョ・ブラックらのキュビスムに影響を受けて前衛的な作品を制作し始めます。徐々に円筒形のモチーフが作品に現れるようになり「土管屋」と称されることもありましたが、キュビスムをさらに押し進めた抽象化の表現として、レジェはさらに制作活動を進めていきます。

そんなレジェの作風は戦後徐々にポピュラーなものとなっていき、機械や人間といった現代的な主題を大胆に単純化して描く彼の作風はその後のポップアートにつながるものとされ、「ポップアートの先駆者」とも呼ばれています。

レジェは1952年に弟子でもあるロシア出身の画家ナディアと再婚。セーヌ・エ・オワーズ県のジフ=シュル=イヴェットに転居し、1955年74歳で亡くなっています。絵画のみならず、版画、陶器、舞台装置、映画など幅広い分野において残した多大な功績は、今もなお注目され続けています。没後の1960年には彼が陶器製作を始めた地であるビオットにフェルナン・レジェ美術館が建設されています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

関連記事一覧