ロベール・ドローネー:オルフィスムの創始者

ロベール・ドローネーは1885年フランス、パリに生まれた画家です。正規の美術教育は受けていないもののゴーギャンやスーラ、セザンヌなどを独自に研究しキュビスムの抽象化をより推し進め、オルフィスムとよばれる新しいスタイルを作りあげました。そんなドローネーの生涯はどのようなものだったのでしょうか。

■ロベール・ドローネーとは

ロベール・ドローネーは1885年、ジョージ・ドローネーとフェルティ・ド・ローズ伯爵夫人との間に生まれました。幼少時に両親は離婚してしまい、ドローネーはブルージュ近郊のラ・ロシェールで母親の妹のマリーとその夫であるチャールズ・ダムールに育てられることになります。

幼少のころから芸術に関心を抱いていたドローネーは伯父のロンシンのもとに移り、装飾芸術を学ぶようになります。19歳のときには絵画に専念するようになり、1904年にはサロン・ド・アンデパンダン展に作品を出品し、画家としてのスタートを切ります。

(Public Domain /‘Portrait of Henri Matisse’by Carl Van Vechten. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ドローネーは同時代の画家たちと交流を重ねており、1906年のサロン・ド・アンデパンダン展ではアンリ・マティスとも出会っています。またフランスの科学者で色彩理論家のミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの色彩の同時対照に関する理論を読み、スーラの新印象派にも関心を抱くようになります。

(Public Domain /‘Jean Metzinger’Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1907年にはベルテ・ウェイルが運営する画廊でジャン・メッツァンジェと共に展示を行っており、美術批評家のルイス・ヴォクセルから「モザイク状の立方体で構成される分割主義の画家」と称されました。

1907年にはベルテ・ウェイルが運営する画廊でジャン・メッツァンジェと共に展示を行っており、美術批評家のルイス・ヴォクセルから「モザイク状の立方体で構成される分割主義の画家」と称されました。その後1909年にはキュビスム運動に参加し、代表作となるパリの風景やエッフェル塔をテーマとしたシリーズを制作するようになります。また前年には未来派として活動していたウクライナ人のソニア・タークと出会っており、1910年に二人は結婚することになります。

(Public Domain /‘Portrait of Wassily Kandinsky’Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

その後ワシリー・カンディンスキーの誘いを受け、前衛芸術運動を行う「青騎士」に参加します。グループの作家たちの影響もあり、ドローネーの作風はどんどん抽象化していきました。

(Public Domain /‘Portrait of Guillaume Apollinaire’Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1912年ドローネーは、ギャラリー・バルバザンゲスで大規模な個展を開催します。展示されたのは初期の印象派の作品から、キュビスム時代の作品であり、個展を見たギヨーム・アポリネールが絶賛するなど、画壇で注目を集める存在になっていきました。

(Public Domain /‘The Window’by Robert Delaunay. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

このころフランスはキュビスム最盛期でドローネー自身もキュビスムの作品を制作していました。しかし彼はキュビスムにおける色彩や動きの排除には批判的であり、キュビスム側もドローネーの作風は印象派や装飾絵画に回帰していると批判していました。そんななか1913年にはギヨーム・アポリネールの紹介で、ドローネーはキュビスムの抽象化をさらに推し進めたオルフィスムの作家として知られるようになっていきます。以降ドローネーは光の特性を研究し、非具象的な作品を描いていきました。こうしたドローネーの作品はのちにパウル・クレーやフランツ・マルク、アウグスト・マッケなどに影響を与えています。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドローネー一家はスペインのフォンタラビーに避難、1915年にはポルトガルに移動、戦禍を逃れて生活していたドローネーでしたが、ロシア革命が勃発すると妻の家族から受けていた財政的支援が打ち切られ、生活に困るようになってしまいます。2人は新しく仕事を探すようになり、舞台「クレオパトラ」の舞台デザインの仕事を引き受けるなどして、制作活動を続けていきました。

1921年になるとパリに戻り、1937年のパリ万博では鉄道や航空旅行に関するパビリオンのデザインに参加。絵画だけにとどまらず、さまざまな分野での制作活動にいそしむようになります。

その後第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツの侵攻もあり、オーヴェルニュに避難したものの、当時ドローネーは癌に侵されており、徐々に健康状態は悪化していきました。その後病状が良くなることはなく、1941年10月25日には56歳の若さで亡くなっています。

■ロベール・ドローネーの作品

ドローネーの作品は色彩理論や心理学の研究に基づいて描かれており、1913年に彼を世に紹介したギヨーム・アポリネールは彼の絵画様式をキュビスムとは区別し、オルフィスムと呼ぶようになります。ではそんなドローネーの作品とは、どのようなものだったのでしょうか。

《エッフェル塔》1910年

(Public Domain /‘Tour Eiffel’by Robert Delaunay. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1910年にパリのシンボルであったエッフェル塔を描いた作品で、現在はソロモン・R・グッゲンハイム美術館に所蔵されています。ドローネーはこの他にも50以上のエッフェル塔をテーマにした作品を描いています。

この作品を描いた頃彼はキュビスムの運動に参加しており、中央のエッフェル塔を含め画面全体が幾何学的な形で表現されています。またキュビスムの作家が色彩や動的要素を排除しようとしたのに対し、ここではドローネー特有の色彩論に基づいてエッフェル塔やその周りの空に様々な色が使われていることが特徴です。

《窓》1912年

(Public Domain /‘Simultaneous Windows on the City’by Robert Delaunay. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ドローネーがキュビスムの運動から脱退した1912年に製作された連作です。キュビスムはあくまで現実に存在する対象を描いているという点で具象的な絵画様式ですが、この頃からドローネーは徐々に抽象化への道を進み始めます。

(Public Domain /‘Windows Open Simultaneously (First Part, Third Motif)’by Robert Delaunay. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

この作品はそのタイトルの示す通り窓を描いたものです。よく見るとここにも先ほどと同様に画面中央には抽象化されたエッフェル塔が描かれています。未だキュビスムの影響は感じさせられますが、ここでは具象的に対象を描くことよりもむしろ、連続する色彩のコントラストを研究することが目的とされているのです。様々な色彩が同時に隣り合う様からはキュビスムにはないリズムを感じさせられますが、ドローネーを世に紹介した詩人のギヨーム・アポリネールはこのリズムのような感覚に着目し、ギリシャ神話の音楽の神であるオルフェウスの名に因んで彼の絵画様式を「オルフィスム」と呼ぶようになりました。

《リズム,生きる喜び》1930年

(Public Domain /‘Rhythm, Joy of living’by Robert Delaunay. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1930年に制作された作品で、現在はパリ国立近代美術館に所蔵されています。新印象派やキュビスム、未来派など様々な影響を受けながら独自の表現を見出そうとしたドローネーですが、この作品は完全な抽象画として描かれています。彼はカンディンスキーやモンドリアンと並び最も早い時期に完全な抽象画を描いた画家としても有名です。

彼は1912年から始まるオルフィスムの時代の後に一度抽象表現を離れ、肖像画やエッフェル塔などの具象画を描いています。しかし1930年代に再度オルフィスムの作品を制作するようになります。以前から彼は円形を用いた絵画を制作していましたが、それをさらに発展させたのがこの作品を含む《リズム》シリーズです。ここでは彼が研究してきた光の効果や同時性といった要素が大胆に使用されながらも見事に調和しており、まさに生きる喜びを味わうような生き生きとしたリズムを感じられる作品となっています。

■おわりに

(Public Domain /‘Hommage to Blériot’byRobert Delaunay. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ロベール・ドローネーはパリに生まれ、幼いころから芸術家になることを夢見る少年でした。ゴーギャンやスーラ、セザンヌなどを研究し、またミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの色彩の同時対照に関する理論を読むなど、新しいアプローチを試みながら自分のスタイルを探求していきます。

その後ドローネーは青騎士に参加し、キュビスムから脱却したオルフィスムの作品を制作するなど、まさに前衛芸術の最先端を走り抜けていきました。その後は二度の世界大戦により、各地を転々とする生活を行っていましたが、パリ万国博覧会のフレスコ画や舞台芸術の仕事に携わるなど、絵画以外のジャンルにもチャレンジし続けた画家といえます。

ドローネーは56歳という若さで亡くなりましたが、彼のスタイルはその後の前衛芸術に引き継がれ、現在もなお称賛され続けています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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