オスカー・ココシュカ:独自の道を進んだ画家

オスカー・ココシュカは1886年オーストリアに生まれた画家です。ウィーン分離派や青騎士、ブリュッケといった芸術運動やグループには参加せず、独自の表現を終始追求し続けました。そんなココシュカの生涯はどのようなものだったのでしょうか。

■オスカー・ココシュカとは

オスカー・ココシュカは1886年オーストリアのポケランに生まれました。父グスタフ・ヨーゼフ・ココシュカはチェコの金細工師として働いていたものの、社会的にも経済的にも問題のある人物でした。そのため幼少のココシュカは母親と寄り添うように過ごしました。

ココシュカは中等学校の実科学校に入学し、科学や言語学といった近代的な科目を学ぶようになっていきました。しかしココシュカはそういった科目に関心を抱くことができず、芸術と古典文学に強い興味を寄せていました。ココシュカの成績をみた教師は美術方面に進学するようにアドバイスします。

父親の反対を押し切り、ウィーン応用美術大学に出願。見事合格し、建築、家具、工芸品、デザインなどを学ぶようになります。

(Public Domain /‘Gustav Klimt’by Madame d’Ora, studio. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ウィーン応用美術大学ではグスタフ・クリムトをはじめとしたウィーン分離派の芸術家たちが教壇に立っており、特にカール・オットー・チェシュカから強い影響を受けたココシュカは、独自のスタイルを作り出していきました。教師たちからも高い評価を受けており、1908年にウィーン分離派が主催する「ウィーン総合芸術展」では、ココシュカはクリムトの推薦を得て作品を展示しています。

順調に画家としての一歩を踏み出したココシュカは1910年にベルリンにあるポール・カッシーラー画廊で個展を開催。またフォルクヴァンク美術館でも個展を開催するなど、幸先の良いスタートを切っていました。またヘルヴァルト・ヴァルデンが編集する芸術雑誌『デア・シュトゥルム』で表紙カバーを担当するなど、ココシュカはさまざまな媒体に挑戦していきました。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ココシュカは志願兵となり、東部戦線に従軍します。戦場は激戦となりココシュカは重傷を負ったためしばらくドレスデンに滞在することになり、1919年にはドレスデン美術大学の教職を得ています。

(Public Domain /‘Tomáš Garrigue Masaryk’Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

その後は1920年代から1930年代にかけてヨーロッパや北アフリカ、中東などを旅行し、この時に見聞きした経験はココシュカの芸術に大きな影響を及ぼすことになります。1931年にはウィーンに戻ったもののナチスドイツの勢力が高まっており、1935年にはチェコスロバキアの首都プラハに移り市民権を獲得しています。また大統領であったトマーシュ・マサリクの肖像画を制作し、そのことがきっかけで彼と友人なっています。

しかし1937年になるとナチスはココシュカの作品を退廃芸術として認定。美術館をはじめとした公共の場所から撤去されることになり、それに失望したココシュカは1938年イギリスに亡命。スコットランドのアラプールという街に滞在し、色鉛筆を使用したドローイングや地方の風景を描いた水彩画を制作しています。

第二次世界大戦が終結するとココシュカの名誉は回復され、巡回回顧展がボストンとミュンヘンで1948年から1950年まで開催されるなど、ようやく公に制作活動が行えるようになっていきます。1953年にはスイスのジュネーブ近郊のヴィルヌーブに滞在し、ザルツブルグ国際サマーアカデミーで教職に就くことになります。ココシュカは1980年に亡くなるまでこの地で過ごし、93歳で生涯を閉じました。

■ココシュカの作品

<iframe width=”560″ height=”315″ src=”https://www.youtube.com/embed/L_UZrM7n4xc” frameborder=”0″ allow=”accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture” allowfullscreen></iframe><iframe width=”560″ height=”315″ src=”https://www.youtube.com/embed/Sd5v4q8RyL8″ frameborder=”0″ allow=”accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture” allowfullscreen></iframe>ココシュカはウィーンで画家としてのキャリアをはじめ、ナチスドイツの台頭によって苦境を見るものの、戦後名誉を回復し、多数の作品を残しました。その作品は幻想的な色使いと激しいタッチにより、見るものを惹き付ける魅力を放っています。そんなココシュカの作品とはどのようなものだったのでしょうか。

《ヴェロニカのベール》1911年

本作品は1911年に制作された作品で、現在はブダペスト国立西洋美術館に所蔵されています。本作品に描かれているのは、聖書に登場するヴェロニカという人物です。聖書の伝承では彼女は十字架を背負いゴルゴダの丘へと歩いているキリストを憐れに思い、顔を拭くようにと自身のヴェールを差し出し

ます。申し出を受けたキリストが顔を拭い彼女にヴェールを返すと、そこには彼の顔が写しとられていました。そういった奇跡を目撃した人物であるとされ、多くの宗教画の中で彼女はキリストの顔が写されたベールを持った姿で描かれます。

しかしココシュカはこの伝統的な絵画をそのまま描くのではなく、作家や対象の内面を画面上に表現する表現主義の画家です。伝統的な宗教画の要素を含みながらも、そこにはこの作品が描かれた翌年から関係を持つことになるアルマ・マーラーへの恋心が描かれているのではないかと捉えることもできるのです。

《風の花嫁》1913年-1914年

本作品は1913年から1914年に制作された作品で、バーゼル美術館に所蔵されています。描かれているのはココシュカ自身と彼の恋人であったアルマ・マーラーです。彼女は有名な作曲家のグスタフ・マーラー、近代建築の四大巨匠のヴァルター・グロピウス、小説家のフランツ・ヴェルフェル、そして画家のココシュカと様々な分野の芸術家たちを虜にしてきた女性でもあります。

二人の関係が続いたのはわずか3年と短く、ココシュカが第一次世界大戦に従軍していた1915年に彼女が建築家のヴァルター・グロピウス結婚することで終止符が打たれてしまいます。それでもココシュカは彼女のことを諦めることができずに、彼女の等身大の人形を制作して共に過ごしていたという、彼女に対する愛情の激しさを感じさせられるエピソードも残されています。

この作品は二人の関係を表しているとも言われており、作品中では激しい風が吹き荒れている中であるにもかかわらず、アルマは安心し切った表情でココシュカに身を寄せています。一方で独占欲や嫉妬心が強かったと言われる当時のココシュカの心境が反映されているのか作品中での彼の表情は硬く、何か物思いに耽っているようにも見えます。ココシュカの彼女を思う様々な気持ちが画面に表された傑作です。

■おわりに

オスカー・ココシュカは幼いころから美術や古典文学に興味を示し、グスタフ・クリムトの推薦を受けるなど才能を発揮し、画家として活躍した人物でした。ナチスドイツの台頭もあって亡命せざるを得ない状況になったこともあるものの、その幻想的で力強いタッチは今もなお人々を惹きつけ続けています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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