パブロ・ピカソ:20世紀最大の画家

パブロ・ピカソは1881年にスペインのアンダルシア州マラガで生まれた画家です。「青の時代」の作品や《アヴィニョンの娘たち》、《ゲルニカ》など20世紀を代表する作品を制作したことで有名であり、またその1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であるとしてギネスブックに記録されています。そんなピカソの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■パブロ・ピカソとは

パブロ・ピカソは1881年10月25日スペイン、アンダルシア州のマラガで父親のホセ・ルイス・イ・ブラスコと母親のマリア・ピカソ・イ・ロペスの長男として生まれました。父ルイスは美術学校の教師や小さな美術館の館長を務める画家で、ピカソは7歳になるとドローイングや油彩の正式なトレーニングを受けるようになります。父ルイスの教え方は伝統的な美術教育に則ったもので、古典巨匠の模写や石膏像や実際のモデルを用いたデッサンなどを通じてピカソに美術の基礎を教え込みました。

1891年になると父親が美術学校の教授となったこともあって、ガリシア州ア・コルーニャに移ります。しかしその頃ピカソの画力はかなり高いレベルに達しており、父はピカソの才能にショックを受け、一度は絵を描くことを辞めようとしたともいわれています。

ピカソはその後美術学校に進むことになったものの、入学試験の課題は当時のピカソにとってあまりにも簡単なものだったようで、本来であれば1ヶ月かかる課題もわずか1週間で完璧に仕上げてしまいました。ピカソは上級の入学試験を突破し、毎日ドローイングの練習を行うようになっていきました。

(Public Domain /‘Self Portrait’by Diego Rodríguez de Silva y Velázquez. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

そんなピカソの画力に驚いた父と伯父は、ピカソをサンフェルナンド王立アカデミーに進学させます。しかし学校の授業は退屈なものだったようで、入学後すぐに中退してしまいます。その代わりに大いに学んだのが過去の巨匠の作品で、ピカソはプラド美術館に足を運んではディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・ゴヤ、フランシスコ・デ・スルバランの絵に感銘を受けていたといいます。

1900年になるとピカソはパリに居を移します。そこでは詩人のマックス・ジャコブやフランシスコ・デ・アシス・ソレルなどと交流を結び、芸術の都での生活を謳歌していたものの、ある日友人カルロス・カサヘマスが自殺してしまいます。彼の自殺にショックを受けたピカソは、その後しばらく青を基調とした憂鬱で沈んだ主題を描く「青の時代」の作品を制作していくようになります。

その後オレンジやピンクを基調とした「バラ色の時代」やアフリカ彫刻の影響を受けた「アフリカ彫刻の時代」などを経て、ピカソはキュビスムの作品を制作するようになります。キュビスムとはポールセザンヌの「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」という言葉をヒントに生み出されたスタイルで、明暗法や遠近法を用いない立体表現として当時の画家たちに驚きを与えました。また総合的キュビスムと呼ばれる時代に移ると新聞の切り抜きや壁紙などを作品に混入させるようになり、これをコラージュ、またはパピエ・コレと呼びます。こうした技法はのちのアッサンブラージュの先駆けとも考えられています。

その後1917年にイタリアを旅行するとそこで古代都市の遺跡やルネサンスの名画を目にし、作風は古典回帰の傾向を見せるようになり「新古典主義の時代」になっていきます。また1925年にはシュルレアリスムのグループに参加、1937年にはスペイン市民戦争におけるドイツ軍の空爆を描いた《ゲルニカ》を制作するなど、そのスタイルは次々と変化していきました。

■ピカソの作品

パブロ・ピカソは当初のアカデミックなスタイルからキュビスム、シュルレアリスムなど多様なスタイルの作品を制作したことで有名です。そんなピカソの作品とは、どのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

《人生》1903年

本作品は1903年に制作された作品で、現在はクリーヴランド美術館に所蔵されています。ピカソの「青の時代」に制作された作品で、その中でも集大成とも言われている作品です。

ここに描かれているのは親友のカルロス・カサジェマスとその恋人のジェルメールです。精神的に不安定であったカサジェマスはある日、呼び出した恋人を拳銃で撃った後に自身もこめかみを撃ち抜いて自殺してしまいます。幸いジェルメールは死には至りませんでしたが、友人を助けることができなかったピカソの自責の念が強く表れており、その薄暗く青を基調とした画面はまさに「青の時代」を代表する作品だといえます。カップルを見つめる母子像や背後の蹲る人の姿、またカサジェマスのジェスチャーの意味など様々な謎が残されるこの作品は今なお美術研究者の議論の対象とされています。

《ゲルニカ》1937年

本作品は1937年に制作された作品で、現在はソフィア王妃芸術センターに所蔵されています。また大戦後に実物大のタペストリーが制作されており、国際連合本部の国際連合安全保障理事会議場前やゲルニカ市に展示されています。

この作品では1937年4月26日にナチスドイツによって行われたスペイン北部に位置するゲルニカへの無差別爆撃の惨状が表されています。ピカソはもともと1937年のパリ万博のために別のテーマで作品を制作していましたが、このニュースを耳にするとすぐに題材を変更し急いでこの作品を制作しました。そのため油絵具よりも乾きの早い工業用のペンキを使用して描かれています。

死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親やいななく馬は戦争の悲惨さを表現しており、牛はファシズム、馬は抑圧された人民を表現していると見られていますが様々な解釈が可能です。ピカソ自身は「本能的に、無意識的に絵を描いている」と様々な解釈に反論しています。ゲルニカは当時としては珍しいモノクロの絵画として制作されましたが、あえて血の色を描かないことで、爆撃の悲惨さを如実に表しています。

《ゲルニカ》は、完成した1937年にパリ万国博覧会のスペイン館で公開され、その後は、アメリカのニューヨーク近代美術館(MoMA)が保有していました。その後独裁政権を樹立していたフランコが亡くなりスペインの民主化が実現すると、1981年にスペインに戻ることになります。現在はソフィア王妃芸術センターに常設で展示されています。

■おわりに

パブロ・ピカソは美術教師であった父親の教育もあって、早くから絵画の才能を発揮するようになります。サンフェルナンド王立アカデミーに入学するものの、アカデミーの授業はピカソを満足させるものではなく、プラド美術館の巨匠たちの作品や同時代の前衛芸術の画家たちと交流するうちに、ピカソは次々と新しいスタイルを生み出していきました。

晩年はさまざまなスタイルを融合させ、これまで以上にカラフルでプリミティブな作品を制作していたものの、1973年4月8日にはフランスのムージャンで死去。92歳の生涯でした。

ピカソはほかの画家と比べると多作であったことで知られており、その作品総数はギネスブックに掲載されるほどでした。ピカソはそうしたさまざまな領域にチャレンジすることで、自身の才能を試そうとしていたのかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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