ジャニス・ジョプリン: 幻の最後の1曲

ジャニス・ジョプリンとは

1960年代に活躍した白人のソウル・シンガー。白人女性でありながら「ブルースの女王」や、「伝説のロッククイーン」と呼ばれた。ドラッグと男性遍歴のスキャンダルにまみれながらも、その圧倒的なヴォーカルのパワーで時代を代表するアーティストとなる。モントレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバルや、ウッドストックでのライヴ・パフォーマンスは伝説となっている。1970年27歳の若さで死亡。純度の濃いヘロインを摂取して致死量を超えてしまったためと言われている。のちに彼女の生涯がベッド・ミドラー主演でドキュメンタリー映画「ローズ」として公開された(1979年)。

生まれてからデビューまで

ジャニスは1943年1月19日テキサス州の田舎町ポート・アーサーで生まれた。彼女の持ち前の奔放な性格が保守的なテキサスの田舎町には合わず、友達も少なく孤立しがちな少女時代を過ごした。その頃の孤独な体験がのちに彼女の運命を狂わせていく事になる。大学を中退してニューヨークやロサンゼルスのクラブで歌い始めてから、しだいにブルース・ミュージックに目覚めていく。その後サンフランシスコに行き、カウンター・カルチャーが最初に開花した街と言われるノースビーチを経て、ヒッピーの聖地であるヘイト・アシュベリーへと移り住む。一旦テキサスに戻って静養するが(ドラッグの大量摂取が主な原因か)、再びサンフランシスコへ戻って、1966年にバンド「ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー」に参加し、プロのミュージシャン生活を始める。1967年、バンドはアルバム「ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー」でインディーズのレーベルからレコード・デビューした。

(Public Domain /‘Janis Joplin and Big Brother and the Holding Company’by Albert B. Grossman. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

サンフランシスコ音楽シーンではすでに注目されていたが、全米ではチャート60位と商業的にふるわなかった。当時このアルバムではレーベルに騙されて1セントも貰えなかったらしいが、のちにCBSがシングル2曲を加えて再リリースしている。

モンタレー・ポップ・フェスティバル

バンドは、1967年6月16日から18日の3日間にカリフォルニア州モンタレーで行われたモントレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバルに出演した。このイベントは、前年行われたモンタレー・ジャズ・フェスティバルを模して開催されたもので、3日間で30組以上のアーティストが出演し、20万人以上を動員して、のちの大規模なロック・フェスティバルの先駆けとなった。主な参加アーティストは、エリック・バードン&ジ・アニマルズ、サイモン&ガーファンクル、アル・クーパー、バーズ、バターフィールド・ブルース・バンド、ローラ・ニーロ、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、ブッカー・T&ザ・MG’s、ママス&パパスなど。ザ・フーが楽器を破壊し、ジミ・ヘンドリクスがギターを燃やし、オーティス・レディングがシャウトしたこの伝説のフェスティバルで、ほぼ無名だったジャニスは、ビッグ・ママ・ソーントンの「ボール・アンド・チェイン」のカバーなどを披露。その歌声で観客の心を鷲掴みし、当初予定のなかった18日の夜の部にも再登場してパフォーマンスを行っている。

「チープ・スリル」

モンタレーでの圧巻のパフォーマンスが話題となり、バンドは翌1968年メジャー・レーベルCBSと契約、セカンド・アルバム「チープ・スリル」をリリースする。その評判から、アルバム完成前から50万枚が予約されており、全米8週連続No.1という大ヒットを収めた。予約が殺到していたため、レコーディングが遅れていても発売を遅らせる事ができず、最終的には36時間ぶっ続けでセッションとミックス作業を行なってアルバムを完成させた。「チープ・スリル」は、ライヴ・アルバムと言われているが、ジャニスの声量が女性としてかつて前例がないほど力がありすぎたためスタジオで修正が加えられており、実際にはライヴ風スタジオ・アルバムになっている。アルバム・タイトルをバンド・メンバーは当初「セックス・ドープ・アンド・チープ・スリルズ」にしようとしていたが、レーベル側に却下されている。このアルバムには、前述の「ボール・アンド・チェイン」や、ガーシュイン作の楽曲をブルース風にアレンジした「サマー・タイム」、ジャニスの激情がほとばしるR&Bでアーマ・フランクリンのカバーである「ピース・オブ・マイ・ハート」といったロック史に残る名曲を収録している。しかし、バンドとして大ヒット・アルバムは出したが、改めてジャニスの才能とバンドの演奏能力・表現力のギャップは逆に浮き彫りとなり、1968年12月ジャニスはバンドを脱退する事になった。

ウッドストック・フェスティバル

その後ジャニスをサポートするバンドは定着せず、メンバーとバンド名をコロコロと変えながらツアーを行っていたが、1969年8月ニューヨーク州サリバン郡ベゼルで行われたヒッピー達の伝説のイベント、ウッドストック・フェスティバルに出演した。

「平和と愛の祭典」と銘打ったこのフェスティバルは8月15日から17日の3日間行われ、当初1、2万人の入場者を見込んでいたが、前売りで168,000枚のチケットが売れ、結局40万人以上の観衆が集まったため、最終的には事実上の無料ライヴとなった。雨による悪天候、ヒッピー達のドラック使用、予想外の動員数によるトイレや食糧の不足など、フェスティバルとしては劣悪な状況が想像できるが(会場内でライヴ中に2人のベビーが誕生したとも言われている)、実際には驚くほど平和的なライヴとなった。1960年代の若者達のラヴ&ピースを象徴としたヒッピー時代の象徴的な祭典であった。
主な参加アーティストは、サンタナ、グレイトフル・デッド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、ジョーン・バエズ、スライ&ザ・ファミリーストーン、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジョー・コッカー、ジョニー・ウィンター、ザ・バンド、クロスビー・スティルス&ナッシュ、など。3日間のトリはジミ・ヘンドリクスが務めたが、雨によるたび重なる中断のおかげで彼らの出番は18日月曜日の朝8時になっていた。ジャニスは2日目に出演し、「ピース・オブ・マイ・ハート」、ビージーズのカバー「ラヴ・サムバディ」などを披露、この歴史的なイベントに確かな爪痕を残した。

「コズミック・ブルースを歌う」

同年コズミック・ブルース・バンドとともにソロ・アルバム「コズミック・ブルースを歌う」を発表。サックスやトランペットも加えた布陣でよりソウル・ミュージックに傾倒した作品となった。前作がライヴ風のアルバムだったため、静かなスタジオ録音の中で響き渡るジャニスの声は逆に新鮮であった。またジャニス自身が作詞した楽曲「コズミック・ブルース」の歌詞は成功と名声を手にしてもいまだ深い孤独から抜けられない彼女の心情を生々しく描写し、ファン達の共感を呼んだ。その他「ラヴ・サムバディ」や名曲「トライ」、「メイビー」などを収録している。アルバムのセールスは全米最高で5位ながらもミリオンセラーとなった。「ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー」からの脱退を薄情だと世間から叩かれ、プロのスタジオ・ミュージシャン達とクールなビジネスだけの関係で結成したバンドのはずだったが、結局たった2ヶ月でこのバンドも解散する事となった。

「パール」

1970年ジャニスはキーボード・プレイヤーも2人参加している新たなバンド「フル・ティルト・ブギー」を結成、よりゴスペル風のサウンドに傾倒していった。このバンドはついにジャニスの理想としていたバンドとなり、アルバムのプロデューサーにはドアーズを手掛けていたポール・A・ロスチャイルドを迎えてレコーディングがほぼ完成に近づいていた。しかし、1970年10月4日ジャニスはハリウッドのランドマーク・モーター・ホテルの105号室で1人きりで死んでいるのが発見された。発見者はバンドのマネージャーであるジョン・クック。原因は摂取したヘロインの純度が高すぎて致死量を超えてしまった事だと言われている。
遺作となったアルバムは彼女のニックネームを取って「パール」と名付けられ1971年1月にリリースされ、全米9週連続No.1の大ヒットとなった。シングルとしても「メルセデス・ベンツ」や、クリス・クリストファーソンのカバー「ミー・アンド・ボビー・マギー」が大ヒットした。アルバムには1曲だけジャニスのヴォーカルのレコーディングが終わっていなかった楽曲がインストロメンタルのまま、アルバムのA面最後に収録された。その曲のタイトルは「生きながらブルースに葬られて」だった。

薄命のロック・スター達

1960年代の終わりから70年代の初めに多くのロック・スター達が、ドラッグが原因と思われる死因で若くして亡くなった。1969年7月3日元ローリング・ストーンズのリーダーであったブライアン・ジョーンズがプールで溺死。ジャニスが亡くなる3週間前の9月18日には天才ギタリスト、ジミ・ヘンドリクスが死亡。1971年7月3日ドアーズのヴォーカリストで詩人のジム・モリソンが死亡している。ジャニスも含めて死んだ年齢が全員27歳だったため、他の世代の27歳で死んだミュージシャン達(ロバート・ジョンソン、カート・コバーン、エイミー・ワインハウスなど)も含めて27クラブのメンバーと言われている。

まとめ

彼女の歌声はロックの枠にとどまらず、白人でありながらブルースやR&B、カントリーにも通じる唯一無二の存在であり、60年代という時代背景が生んだスーパースターだった。しかし、テキサスの保守的な田舎町で幼い頃に友達が少なかった時期から抱えていた孤独とコンプレックスによって極度に愛情に飢え、酒とドラッグに溺れていき、これまたあの時代の寵児のさだめのように若くしてその才能を失う事になってしまった。彼女が最後にレコーディングするはずであった曲のタイトルが「生きながらブルースに葬られて」。この曲を歌う直前に本当に葬られてしまうとはとても運命的な出来事であった。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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