The Stone Roses: ザ・ストーン・ローゼズ再結成の意味とは

ザ・ストーン・ローゼズとは

イアン・ブラウン(ヴォーカル)、ジョン・スクワイア(ギター)、マニ(ベース)、レニ(ドラム)の4人からなる1990年代前半から活躍したイギリス・マンチェスター出身のロック・バンド。1989年発売の「ザ・ストーン・ローゼズ」と1994年発売の「セカンド・カミング」のたった2枚しかアルバムをリリースしていないのにもかかわらず、当時「マッドチェスター」と言われた音楽シーンを圧倒的な存在感で牽引し、のちにブリッドポップとして登場するオアシスやブラー、その後のイギリスのロックシーンにも大きな影響を与えている。1996年に一度解散するが、2011年に再結成した。

ローゼズ登場以前

ザ・ストーン・ローゼズが登場する前にイギリスを席巻していたロック・バンドは、同じマンチェスター出身の「ザ・スミス」だった。ザ・スミスは、1982年ニューヨーク・ドールズ・ファン・クラブの会長をしていたヴォーカルのモリッシーがギターのジョニー・マーを誘って結成された。「女王陛下は死んだ」や「食肉は殺人だ」といったタイトルに象徴されるモリッシーのシニカルで皮肉的で文学的で政治的な歌詞の世界と、ジョニー・マーの表情豊かなポップでキャッチーな楽曲とギターサウンドは、社会や政治に不満を持つイギリスの、特に労働者階級の若者達に熱狂的に支持された。学校へ行きたくない、他人とうまくなじめない、など青春をこじらせてしまった若者たちの代弁者がモリッシーであり、社会不適合者達のためのバンドとまでいわれた。4枚のオリジナル・アルバムと17枚のシングルをリリースした後、ザ・スミスは1987年9月に解散した。原因の一つはジョニー・マーがバンドを脱退するという間違った報道によって、バンド内に不協和音が広がり、実際にジョニー・マーが脱退せざるを得ない状況に追い込まれた事とされている。わずか5年間の活動期間であり、イギリスのロックファンに”スミス・ロス”が蔓延する中、その穴を埋めるかのようなタイミングで登場したのがザ・ストーン・ローゼズだった。

1983年~1990年

1983年ザ・ストーン・ローゼズは、イアン・ブラウンとジョン・スクワイアによって結成された。ドラムとベースはメンバーチェンジを経て1987年8月に前述のメンバー4人となる。同年メジャーのレコードレーベル、シルヴァートーンと契約した。先行シングル「メイド・オブ・ストーン」の発売後、1989年5月にファースト・アルバム「ザ・ストーン・ローゼズ」がリリースされた。

天才・レニとマニのリズム隊による高揚感を与える独特のグルーヴと、ジョンのポップかつサイケデリックなギターのリフ、そして3人の卓越した演奏の上に乗るイアンの下手で危なっかしいヴォーカルが全て魅力的で、ブリティッシュ・ロックの伝統的な部分と革新的な部分の両方を備えていた。また、このアルバムは60年代のポップなメロディと、70年代のロックのグルーヴと、80年代のダンス・ミュージックの要素を全て併せ持っていた。かつてのマンチェスターの雄、ザ・スミスのモリッシーが書く歌詞がネガティヴで間接的だったのに対して、ザ・ストーン・ローゼズの歌詞はポジティブでストレートかつビックマウス、そして音楽シーンの主役はオーディエンスだと位置づけて、クラブ・シーンを席巻することとなった。同年には海外でもツアーを開始。ライヴではスポットライトを使用せず薄暗いステージ上でファースト・アルバムを1曲目からラスト曲まで全くアルバムと同じ曲順で演奏し、アンコールもやらないというスタイルで話題となった。11月にはジェームス・ブラウンの「ファンキー・ドラマー」をサンプリングしたシングル「フールズ・ゴールド」を発売。

ロック色を消し、ファンキーなグルーヴで当時のクラブ・シーンのど真ん中を撃ち抜いた傑作で、彼らのベスト・ソングという評価も多かった。シーンの注目がどんどんと高まる中、1990年5月スパイク・アイランドで観客27,000人の前で行われたライヴは、60年代に行われたウッドストックにも例えられ、のちに伝説と言われた。

マッドチェスター

ザ・ストーン・ローゼズを中心にした当時のカルチャーは、マッド(狂った)とマンチェスターのチェスターによる造語で、マッドチェスターと呼ばれていた。ドラッグを使用しながら、クラブでアシッドハウスなどの音楽を享楽的に楽しむ若者たちの文化は60年代のヒッピーブームともなぞらえて「セカンド・サマー・オブ・ラブ」といわれた。マッドチェスターの他の代表的なバンドとしては、ショーン・ライダーを中心にレイヴ・カルチャーを体現した能天気パーティー・バンドのハッピー・マンデーズや、電気楽器ハモンド・オルガンを使ったサウンドが特徴的で、オアシスのノエル・ギャラガーがローディーとして参加していたことでも有名なインスパイラル・カーペッツ、当時は「インスパイラル・ローゼズ」などと揶揄されたこともあったが、30年近く経過した現在でも解散することもなくコンスタントに作品をリリースし続けているザ・シャーラタンズ、などが活躍していた。

1990-1996年

スパイク・アイランドの伝説のライヴ後、同年6月にシングル「ワン・ラヴ」をリリースしてから、バンドは長き沈黙の期間に突入する。ファースト・アルバムの狂騒ぶりは、彼らの生活も一変させ、またセカンド・アルバムの期待への重さも感じていた。所属レーベルのシルヴァートーンとの契約をめぐる裁判が解決したあとから、ようやくセカンド・アルバムのレコーディングの情報がはいるようになり、なんとアルバムはレッド・ツェッペリンのようなサウンドになる、という噂が出てファンを大いに驚かせた。そして1994年12月、ファースト・アルバムから実に5年半ぶりの新作「セカンド・カミング」がついに発売された。アルバム1曲目は「ブレイキン・イントゥ・ヘブン」。

川のせせらぎや鳥の鳴き声といったSE音楽から始まる合計4分を超える長いイントロが終わってサビの美しいメロディに到着した時、ファン達は彼らの帰還を心から喜ぶ事となった。レッド・ツェッペリン風との噂通り、このアルバムはファーストのダンサブルなサウンドから大きく変わり、レニとマニによる重厚なグルーヴの上にジョン・スクワイアのヘビーなギターサウンドが響き渡る作品となり、多くのイギリスのロックファンが待ちわびていたこのアルバムは全英4位を記録した。しかし、「セカンド・カミング」以降、バンドは崩壊の危機を迎える。1995年3月にドラムのレニが家族のためにという理由でツアーの前にバンドを脱退。1996年4月にはイアンの盟友だったギターのジョンも脱退した。メンバーチェンジで乗り越えようとしていた残ったイアンとマニだったが、同年8月のレディング・フェスティバルの大トリでのパフォーマンスがファンから酷評を受けることになった。これを受けイアンが音楽業界への罵言と支えてきてくれた人たちへの感謝の声明を出し、ザ・ストーン・ローゼズは解散した。

解散後のメンバー

イアン・ブラウンは1998年リリースの「アンフィニッシュド・モンキー・ビジネス」でソロデビューし、その後もコンスタントに活動を続けていた。ジョン・スクワイアはバンド「ザ・シーホーセズ」を結成するも1枚のアルバムを残して解散。もう一つの才能である絵画の道を進み、ロック界から離れていった。ベースのマニは、ボビー・ギレスピーに誘われてバンド「プライマル・スクリーム」に加わり、バンドにローゼズ流のグルーヴを新たに持ち込んで名曲を量産した。ドラムのレニはバンド脱退後シーンに戻ることはなかった。

再結成

幾度となく湧き上がった再結成の噂、破格のギャラなどを完全否定してきたメンバーだったが、2011年にマニの母親の葬儀にてイアン・ブラウンとジョン・スクワイアが15年ぶりに再会する。絶縁状態だったふたりだったが、この再会を機に流れが変わった。そして、同年10月に4人が揃って記者会見を行い、バンドは再結成を発表した。再結成ツアーを行い、世界各地で多くのファン達を動員しながら、2016年5月にはアルバム「セカンド・カミング」以来22年振りとなる新曲「オール・フォー・ワン」がデジタルでリリース。続けて6月にも「ビューティフル・シング」が同じくデジタルで発売された。

まとめ

ザ・ストーン・ローゼズは80年代終わりと90年代初めに2枚のアルバムを残しただけのロック・バンドだった。しかもアメリカはおろかイギリス国内でもオアシスのようにセールス的にも売れまくったわけではない。それでもザ・ストーン・ローゼズの存在は特別な事件であり、ムーヴメントでもあり、のちのブリティッシュ・ロックに大きな影響を与えたイギリスの歴史上のバンドであった。彼らが存在していなければ、オアシスもブラーもレディオヘッドもみんな存在していなかったかもしれない。

当時の狂騒ぶりは、「この4人以外では演奏しない」と宣言していたほど強かったメンバー同士の絆をも壊し、再び一緒に活動するまでに20年を要する程であった。「オール・フォー・ワン」と「ビューティフル・シング」は、かつてのように新しい時代を切り開くような曲ではない。新しいファンがこれで飛躍的に増えることもないだろう。ただ、この2曲は当時の狂騒の中で見えなくなっていたものを20年経って冷静に見直して、改めて4人にとっての「ザ・ストーン・ローゼズ」とは何だったのかを検証しているかのように感じる。そこに再結成とこの2曲の価値は確かにあったのだ。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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