ジョルジュ・ルオー:20世紀最大の宗教画家

ジョルジュ・ルオーは、1871年フランス、パリに生まれた画家です。当初はステンドグラス職人として働きながら美術学校で芸術を学び、画家として売春婦やピエロ、そしてキリスト教を題材に多数の作品を制作していきました。美術史学的にはフォービスムに分類されますが、ルオー自身は画壇や流派などに属することなく自身の芸術を探求し続け、その独特の宗教美術を作り上げました。そんなルオーの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■ジョルジュ・ルオーとは

ルオーはパリの貧しい家庭に生まれました。それでも幼いころから芸術の才覚を示しており、ルオーの母親は息子を励まし続けました。そんな母の後押しもあって、1885年14歳でルオーはステンドグラス職人や修復作家として修業し始めます。ステンドグラスは後のルオーの作品に大きな影響を及ぼし、黒い輪郭線や真っ赤な色彩といった独自の表現のインスピレーションの源となっていきまし

(Public Domain/‘Self-portrait’ by Gustave Moreau. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

見習い職人の間は、芸術学校の夜間クラスに通い、1891年にはパリのエコール・デ・ボザールに入学しています。この時ルオーを指導したのがフランス象徴主義を代表する画家であるギュスターヴ・モローで、彼はルオーのことを息子のように思いながら指導していたそうです。そうしたこともあってか、ルオーの初期の作品にはモローの影響が色濃くみられます。師を敬愛していたルオーは1903年に開館したギュスターヴ・モロー美術館の初代館長を務めています。

ルオーはアンリ・マティスをはじめとしたフォービスム運動にも関わるようになり、アルベール・マルケ、アンリ・マンギン、シャルル・カモワンらとも交流を重ねるようになります。1905年のサロン・ドートンヌではほかのフォービスムの画家たちと参加。その際にルオーが発表した作品は激しい色使いと感情的な表現が特徴的であり、フィンセント・ファン・ゴッホから影響を受けたものと考えられています。過激でグロテスクにも思われる作風は、のちの表現主義の作家たちに多大な影響を与えました。

1907年になるとルオーはピエロや売春婦などをモチーフとした作品を制作し始めます。こうした作品は社会に対する批判的な目線から制作されたものと考えられており、こうした作品を制作する中でルオーの関心は人間の内面性や精神世界などに移っていきました。そんな時に知り合ったのが実存主義の哲学者であるジャック・マリティンで、その出会いをきっかけとしてルオーは徐々に宗教を題材にした作品を制作するようになっていきました。

1910年にルオーは最初の個展を開催します。この個展が評判となり、彼の名前はドイツ中に広まっていきました。そのなかでも特に衝撃を受けたのがドレスデン出身のドイツ人芸術家たちで、ドイツ表現主義に大きな影響を与えることになります。1917年になるとルオーはキリスト教への信仰を作品の題材とするようになり、その情熱は20世紀最大の宗教芸術家といっても過言ではないほどでした。

1929年にはバレエ・リュスの「放蕩息子」の舞台デザインを担当し、1930年にはロンドン、ニューヨーク、シカゴなどを中心に海外で展示活動をするなど、幅広い活躍を見せるようになります。

(Public Domain/‘Ambroise Vollard’ by Edmond Bénard. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ただその一方で1917年に画商アンブロワーズ・ヴォラールと結んだ契約で「ルオーの全作品の所有権はヴォラールにある」とされており、納得のいかない作品を決して世に出さないルオーにとってこの契約は我慢ならないものでした。

晩年になると「未完成作品の所有権は画家にある」とするルオーの主張が認められ、ルオーは300点以上の未完成作品を取り戻し、焼却してしまいます。それほどまでにルオーは完璧を求めた画家だったのです。

■ルオーの作品

ルオーの作品は、黒く太い輪郭線を多用し、赤や青、黄色などの鮮やかな色を用いるのが大きな特徴です。こうした作風はステンドグラスの表現方法の影響が色濃く影響していると考えられており、貧しい人々の姿やキリスト教の逸話をより劇的なものにしています。そんなルオーの作品はどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

《聖顔》1933年

本作品は1933年に制作された作品で、現在はパリのポンピドゥーセンターに所蔵されています。エルサレムの敬虔な女性であったヴェロニカは、十字架を背負いゴルゴタの丘へと歩くキリストを哀れに思い、額の汗をぬぐうように自身のヴェールを差し出します。キリストは彼女のヴェールを受け取り、汗をぬぐってヴェロニカに返すのですが、ここで奇跡が起こり、ヴェールにはキリストの顔が浮かび上がります。本作品はそうした奇跡を題材として制作したものと考えられています。

黒く太い輪郭線や赤や白を荒々しく用いた表現はルオーならではの表現であり、キリストの力強いまなざしからは、ルオーが作品に注ぎ込む情熱を感じ取ることができます。また信仰心の篤いルオーはこの聖顔という題材を生涯にわたって描き続けています。彼は産業化が進み人々が信仰心を失った時代において、芸術を通じて再び彼らの信仰心を蘇らせようとしたのでしょう。

《郊外のキリスト》1920年-1924年

本作品は1920年から1924年に制作された作品で、日本のアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)に所蔵されています。

白い満月が街の裏通りを照らしており、近景には白い衣をまとった男性と子どもが2人描かれています。一見して親子のようにも見えますが、タイトルからもこの男性はキリストであることがわかります。本作品に描かれているのはパリ郊外のラ・ヴィレット地区であるといわれており、町外れにある貧しい人々が住む場所でした。ルオーはこの郊外で生まれ育っており、幼いころに目にした情景にキリストの姿を重ね合わせることで、ある種の崇高さをも表現しています。

《エバイ(びっくりした男)》1948年-1952年

本作品は第二次世界大戦後にルオーが制作した作品の一つで、現在は東京の国立西洋美術館に所蔵されています。本作品に描かれているのはピエロであると考えられており、どこかニヒルな表情が特徴的です。ルオーは1910年代にもサーカスやピエロを主題に制作しており、そのころの作品は社会風刺性をはらんでおりどこか暗い印象を受ける作風でした。本作品におけるピエロはそうした初期作品とは異なり、ふざけたような表情をしています。

実は彼がサーカスの人々を描き出したきっかっけには師であるモローの死が関係しています。モローも神話や宗教を題材とすることの多かった画家であり、活動初期のルオーは彼に教わりながら彼の背中を追うように宗教画を描いていました。しかしその師がいなくなってしまったことで、産業化が進み人々が信仰心を失った社会の中で宗教画を描き続ける意味を見失ってしまったのです。そんな中でルオーは道化師に心を惹かれるようになります。サーカスは信仰とは程遠い娯楽の代表ではありますが、そこで過酷な生活を続ける人々に当時のルオーはシンパシーを感じたようで、友人に宛てた手紙の中で彼は道化師と、生きることの苦しみを抱えていた自分自身を重ねています。サーカスを描いた初期の作品は社会風刺とされている一方で、そんな作家の内面も描かれていたのかもしれません。

本作品においてピエロが明るく描かれているのは、晩年のルオーの穏やかな心境が影響しているのでしょう。かつてピエロに自身を重ねていたということもあり、彼自身の肖像のように見ることもできるでしょう。

■おわりに

ジョルジュ・ルオーは貧しい家庭に生まれたものの、芸術の才能を示し、20世紀最大の宗教画家として活躍した画家です。ステンドグラス職人としての経験から、黒い輪郭線や赤、青などの原色を用いた表現が特徴的であり、最大のライフワークとなる宗教を題材とした作品にも色濃い影響を与えていきました。

第二次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパの画家たちの中にはアメリカに亡命、あるいは制作活動を中断せざるを得ない者もいましたがルオーは制作を続け、1958年86歳でその生涯を閉じています。ルオーの葬儀は国葬で行われ、誰もが偉大な宗教画家の死を悼みました。

ルオーの表現はドイツ表現主義をはじめとした後進の画家たちにも大きな影響を与えており、力強いタッチや鮮やかな色彩は若い画家たちの新しい表現となっていきました。ルオーの作品はそれほどまでに同時代の芸術家たちにとって衝撃的なものだったのです。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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