ジェームズ・マクニール・ホイッスラー:19世紀アメリカを代表する画家

ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは、1834年アメリカ合衆国マサチューセッツ州に生まれた画家です。活動した時期は印象派の画家たちとほぼ同じであるものの、浮世絵などの日本美術などを取り入れ、独自のスタイルを築き上げました。その画風は印象派ともアカデミズムとも一線を画しており、現在もなお人々を惹き付けてやみません。そんなホイッスラーの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■ジェームズ・マクニール・ホイッスラーとは

ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは1834年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ローウェルに生まれました。父親は土木技師であり、1842年からの数年間は父親がロシアで鉄道建設の仕事に就くことになったため、サンクトペテルブルクに移り住んでいます。その後はロンドンやブリストルなどを転々とし、1851年にはアメリカに帰国しています。

ホイッスラーは帰国後ウェストポイントの陸軍士官学校に入学するも、1854年には中退。その後はワシントンD.C.で地形図の銅版画工として働いていますが、20歳を迎えるころにはパリに移り住むことになります。

(Public Domain/‘Self-portrait’ by Henri Fantin-Latour. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain/‘Alphonse Legros’ Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

パリではシャルル・グレールのアトリエに通っていましたが、グレールでの学びはあまりにアカデミックなもので、徐々に革新的な画家たちの作品に目を向けるようになります。そうした中でホイッスラーがもっとも注目したのが、ギュスターヴ・クールベでした。また同時代の画家たちであるアンリ・ファンタン=ラトゥールやアルフォンス・ルグロとも交流を結び、芸術家のグループである「三人会」を結成しています。

その後ホイッスラーはロンドンに渡り、そこでロセッティ兄妹と知り合います。ロセッティ兄妹は、ラファエル前派の創始者であり、その独特の表現にホイッスラーは強い衝撃を受けます。ホイッスラーはこうした同時代の画家たちからも大きな影響を受け、1860年からはロンドンのロイヤル・アカデミーに作品を出品するようになっていきました。

そうした中で1863年に開催された「落選展」は、ホイッスラーにとって大きなターニングポイントになりました。「落選展」とはフランス皇帝ナポレオン3世が開催した展覧会のことで、フランスのサロンで落選した絵画のみを展示した展示会のことを指します。1863年に開催されたサロンでは、5000点近くの応募があったのにも関わらず、3000点以上もの絵画が落選してしまいました。そうした状況にナポレオン3世は芸術家たちの抗議の声を受け、落選した作品を展示することを許したのです。

ホイッスラーは落選展で《白のシンフォニー第1番-白の少女》を出品。白いドレスや白い鼻、白いカーテンなどさまざまな白の色調が対比されたこの作品は、落選展に展示されたのにもかかわらず、大きな注目を集め、ホイッスラーは新時代の画家として名を轟かせていきました。

1876年からはパトロンであった富豪レイランドのロンドンの邸宅の室内装飾を手掛けるなど、絵画以外のジャンルにも積極的に取り組み、その後ロンドンに戻ると1886年にはイギリス美術家協会会長に任命され、アメリカ人でありながらイギリスを代表する画家として活躍し、1903年にはロンドンで亡くなっています。

■ホイッスラーの作品

ホイッスラーの作品の特長は、作品のタイトルに音楽用語を用いる点にあります。ノクターンやシンフォニーといった音楽用語をホイッスラーは特に好んで用いており、絵を描くことと音楽を奏でることを同じように捉えていたのだと考えられています。

また色彩や構図に並々ならぬ情熱を抱いており、1862年のロンドン万国博覧会で紹介された東洋美術にも強い関心を寄せていました。《バラと銀:陶磁の国の姫君》や《白のシンフォニーNo.1-白の少女》などはそうした東洋美術の影響を受けた作品であるといわれています

《白のシンフォニー第1番-白の少女》1862年

(Public Domain/‘Symphony in White, No. 1: The White Girl’ by James McNeill Whistler. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1862年に制作された作品で、現在はワシントン・ナショナルギャラリーに所蔵されています。白いカーテンを背景に、力強いまなざしを向けている白いドレスの女性は百合を手に持ち、オオカミの毛皮に立っている様子が描かれています。モデルは当時ホイッスラーの恋人であったジョアンナ・ヒファーナンです。

ホイッスラーは作品の価値をそこに込められた思想やメッセージではなく、形態や色彩の美に求める耽美主義の代表的画家ですが、この作品でもモデルの内面を描写することよりも様々な白を対比させた色彩や構図を調和させることが重視されています。

《バラ色と銀色:陶磁の国の姫君》1863年-1865年

(Public Domain/‘Rose and Silver: The Princess from the Land of Porcelain’ by James McNeill Whistler. Image viaWIKIMEDIA

1863年から1865年の間に制作された作品で、現在はフリーア美術館のピーコック・ルームに展示されています。着物を着た美しい西洋人の女性が、東洋の調度品の置かれた部屋で佇む様子が描かれています。手には日本のものと思われる団扇を持っており、その表情はどこか物憂げです。また本作のモデルを務めたマリー・スパルタリ・スティルマンは、当時の画家全員が彼女のことを描きたいと思うほどの美人であったそうです。

ホイッスラーは1962年のロンドン万国博覧会以来、浮世絵などの日本美術にも大きな影響を受けており、背景に描かれた日本製の屏風はホイッスラーが所有していたものとも言われています。

《孔雀の間(ピーコック・ルーム)》1877年

元々はホイッスラーのパトロンであったフレデリック・レイランドのダイニング・ルームに施された室内装飾でしたが、アメリカ人実業家のチャールズ・ラング・フリーアによって買い取られ、彼が設立したフリーア博物館に寄贈されました。

ピーコック・ルームには先ほど紹介した《陶磁の国の姫君》も含まれています。この室内装飾は元々レイランドによって別の人物に任されていたのですが、その装飾があまり気に入らなかったこともありホイッスラーが再デザインを手がけることになります。しかし彼は自分の絵画に合うように部屋の印象を徹底的に変えてしまい、そのことが原因でレイランドはホイッスラーとのパトロン契約を解消してしまっています。

部屋全体が紺と金色に塗られているだけでなく、壁には孔雀が描かれているなど贅を尽くした空間となっています。またそこに展示されている陶磁器は中国で最高の名君とも言われる康熙帝時代のもの。この作品が展示されているフリーア美術館はスミソニアン博物館群の一つであり、入場料無料でこの素晴らしい室内装飾を鑑賞することができます。

■おわりに

ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは1834年にアメリカ、マサチューセッツ州ローウェルに生まれ、父の仕事の関係で各地を転々とし、パリで本格的に画家としての活動をはじめました。ホイッスラーの作品にはタイトルに音楽を取り入れたり、浮世絵をはじめとした日本美術を取り入れたりするなどの挑戦的な試みがなされています。

19世紀は伝統的な絵画から離れ、印象派をはじめとした新しい表現を目指す画家たちが生まれた時代でもあります。そうした時代にアメリカ、そしてヨーロッパで過ごしたホイッスラーは、まわりの画家たちから大きな影響をうけ、そして自らも新しい表現を目指して試行錯誤を繰り返していたのでしょう。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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