ラウル・デュフィ:色彩の魔術師

ラウル・デュフィは1877年北フランス、ノルマンディーのル・アーヴルに生まれた画家です。フォービスムの画家のひとりに数えられていますが、その独特の表現から「色彩の魔術師」とも称され、絵画のほかにも本の挿絵や舞台美術、テキスタイルデザインなど数多くの分野で功績を残しました。そんなラウル・デュフィの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■ラウル・デュフィとは

ラウル・デュフィは1877年北フランス、ノルマンディーのル・アーヴルに生まれました。一家は貧しかったものの父親は金属会社の会計係として働きながら、教会の指揮者やオルガン奏者として活動し、母親はヴァイオリン奏者でした。また、9人の兄弟のうち2人も音楽家として活躍することになります。

ュフィは家計を助けるために14歳の時貿易会社で働き始め、ル・アーヴルとニューヨークを結ぶ太平洋定期船ラ・サヴォアで秘書として働くなど、芸術とは程遠い生活を送っていました。しかしデュフィの芸術への関心は高く1895年18歳の時にル・アーヴル市立美術学校の夜間クラスに通い始めます。

デュフィは生涯ル・アーヴルの港をモチーフとして作品を描いていますが、このころからル・アーヴルの港をスケッチしていたことが分かっています。またアーブル美術館でウジェーヌ・ブーダンの作品を模写したり、ルーアン美術館ではニコラ・プッサン、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、テオドール・ジェリコー、ウジェーヌ・ドラクロワの作品を研究したりするなど、美術学校以外でも積極的に絵画を学んでいきました。

1898年になると兵役に就くことになり、しばらく制作活動から離れることになります。しかし悪いことばかりではなく、1900年にはル・アーヴル市から1200フランの奨学金を得られることになり、パリの国立美術学校であるエコール・デ・ボザールで学ぶ機会を得ます。パリでの生活はデュフィにとってとても刺激的なもので、クロード・モネ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、カミーユ・ピサロなどの印象派の画家たちから影響を受けることになります。

1905年にはアンリ・マティスやアルベール・マルケと出会い、フォービスムに関心を持つようになります。

(Public Domain/‘Paul Poiret’ Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1911年になるとファッションデザイナーのポール・ポワレと仕事をすることになり、テキスタイルデザインを担当。その後は1918年にジャン・コクトーの舞台美術を担当するなど絵画以外のジャンルにも活動の幅を広げていきました。1925年には「シャトー・ドゥ・フランス」シリーズが国際装飾美術展で金賞を受賞しており、名実ともに芸術家としての地位を確固としたものにしていきます。

1938年にはパリ万国博覧会の電気館に巨大壁画《電気の精》を描き、イラストレーターとしてもアーティストとしても名声を得るきっかけとなったものの、同時に多発性関節炎を発症。デュフィはこの病気を長く患うことになり、1950年から1952年にかけてはコーチゾン療法を受けるために、アメリカのボストンを訪れています。1952年にはヴェネツィア・ビエンナーレの国際大賞を受賞したものの、1953年には消化管出血のため75歳で死去。現在はニース市の郊外にあるシミエ修道院墓地に眠っています。

■デュフィの作品

デュフィはフォービスムの画家として有名ですが、その画風はほかのフォービスムの画家たちとは一線を画すもので、透明感のある色彩豊かな表現が特長です。音楽や海、馬やバラなどを主要なモチーフとして描いており、軽快な線描が画面にリズム感を与えています。そんなデュフィの作品はどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

《ル・アーヴルの旗を付けたヨット》1904年

1904年に制作された作品で、現在はマルロー美術館に所蔵されています。このころデュフィはアンリ・マティスの作品を目にしており、その新しい表現に衝撃を受けたデュフィは、印象主義から決別することを決意します。

本作品はそうしたデュフィの画風の変遷を感じさせるもので、旗や窓、波などが大胆なタッチで描かれており、印象主義とは程遠い画風の作品となっています。またここでは海を緑色で表現するなど、目に写る色彩ではなく、彼の心に映った色彩が表現されるようになっていることにも注目です

《電気の精》1937年-1938年

1937年から1938年に制作された作品で、現在はパリ市立近代美術館に所蔵されています。縦10m、横60mの巨大な壁画となっており、1937年にパリで開催された万国博覧会の電気館のために描かれました。作品には電気にまつわる110名もの思想家や発明家、発展していく町の様子などが描かれております。

デュフィはこの巨大な作品を完成させるにあたって、新しく速乾性塗料を開発しています。その塗料のおかげで早く乾きながらも高い透明感を持ったこの作品を描き切ることができました。またこの1937年のパリ万博にはピカソの《ゲルニカ》も展示されていたそうですが、当時の人々は戦争の現実を突きつけるピカソの作品よりも、デュフィの描いたこの《電気の精》の明るいタッチに魅了されたそうです。

■おわりに

ラウル・デュフィは貧しい家庭に生まれたものの、美術学校の夜間クラスに通うなどして画力を高めていき、フォービスムやテキスタイルデザインの仕事を経て、独自の色鮮やかで透明感のある表現を確立しました。その集大成といえる《電気の精》は幻想的な雰囲気を放っており、今もなお人々を惹き付け続けています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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