アンドレ・ドラン:フォーヴィスムから古典様式まで

アンドレ・ドランは1880年パリ郊外のイル=ド=フランス、シャトーで生まれた画家です。アンリ・マティスやモーリス・ド・ヴラマンクらとフォーヴィスムを創設したメンバーのひとりとして知られており、その後はキュヴィスムやアフリカ彫刻に影響を受けて平面的な画風の作品を制作。第一次世界大戦後は新古典主義の画風に変化し、国内外から高い評価を得ました。そんなアンドレ・ドランの生涯と作品と、どのようなものだったのでしょうか。

■アンドレ・ドランとは

アンドレ・ドランは1880年パリ郊外のイル=ド=フランス地域圏イヴリーヌ県のシャトーで生まれました。ポール・セザンヌが父親の友人であったこともあって幼少のころから芸術に興味を持つようになり、1895年には独学で絵を描き始めます。

1898年にはカミッロ大学で工学を学ぶことになりますがドランの芸術への関心はとどまることなく、ウジェーヌ・カリエールの画塾で学び、画力を高めていきました。ドランはこのクラスで、のちにフォーヴィスムの盟友となるアンリ・マティスと出会っています。

(Public Domain/‘Henri Matisse’ by Alvin Langdon Coburn. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain/‘Derain and Vlaminck’ Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1900年になるとドランはマティスやヴラマンクとアトリエを共有するようになり、風景画などを描きながら独自のスタイルを追求していました。しかし兵役のために1904年まで制作活動を中断しなくてはならず、また両親から画家になることを反対されていたため、ドランは両親を説得しなくてはなりませんでした。結果的にドランは絵画に専念できることになり、アカデミー・ジュリアンに入学し本格的に絵画を学び始めます。

1905年になると、マティスと共に地中海に面した村コリウールにアトリエを構え、共同制作を行うようになります。風光明媚なコリウールの環境はふたりにさまざまなインスピレーションを与え、作品にも大きな影響を及ぼしています。
またこの年にドラン達のグループはサロン・ドートンヌに参加しており、原色を多用した強烈な色彩と激しいタッチを見た批評家ルイ・ヴォークセルによって「あたかもフォーヴ(野獣)の檻の中にいるようだ」と評されたことにより、フォーヴィスムがはじまることになるのです。

1906年になると画商アンブロワーズ・ヴォラールの勧めでロンドンに滞在することになり、テムズ川沿いの風景を描くようになります。ドランは30点近くロンドンの風景画を描きましたが、その大胆な色使いと構成はこれまでになかった表現であり、これらの作品は後に彼の代表作となりました。

徐々にフォーヴィスムの画家として名声を得るようになっていたドランは、1907年に画商カーンワイラーの支援を受けられることになり、スタジオを持つことになります。

また「洗濯船」の芸術家たちと交流するようになったのもこのころでした。洗濯船はモンマルトルにあった集合アトリエ兼住宅で、パブロ・ピカソをはじめとしてジョルジュ・ブラックやアメデオ・モディリアーニ、コンスタンティン・ブランクーシなど芸術家や文学者、画商などが活動の拠点とした場所でした。

そうしたモンマルトルの画家たちと交流したことで、ドランの画風は大きく変化していきます。特に影響を受けたのはキュビスムのセザンヌで、フォーヴィスムの代名詞であった大胆で鮮やかな色使いから平面的で色彩を抑えたスタイルに変化していきます。その後は古典巨匠の作品に関心を示し、ゴシック時代の作品から影響を受けたと思われる作風になるなど、画風は大きく変化していきました。

1914年に第一次世界大戦が勃発するとドランは兵役に就くことになり、1919年に兵役を解かれるまで作品制作を行うことはできませんでした。戦争が終結すると一躍新古典主義が芸術の中心となり、ドランはそうした芸術家たちのリーダーとして活躍することになります。

またドランは絵画のみならず、舞台芸術にも関心を示し、1919年にはバレエ・リュスの「風変わりな店」の舞台芸術と衣装を担当するようになります。これをきっかけとして晩年までバレエやオペラの舞台芸術に関わるようになり、そのほかにも挿絵や彫刻など絵画以外のジャンルにも積極的に挑戦していきました。

ドランの古典回帰は1921年のイタリア旅行によって決定的なものとなり、遠近法や静物画、人物画を描くようになっていきました。1928年にはカーネギー賞を受賞したことにより海外でも高い評価を得ますが、第二次世界大戦が勃発し、パリが陥落するとドランはナチスドイツの圧力もあって、ナチスに協力するようになってしまします。戦後はナチスの協力者として厳しい追及を受けることになり、画壇から去らざるを得ませんでした。

■ドランの作品

ドランはフォーヴィスムの画家として知られていますが、パブロ・ピカソの影響を受けてキュビスムの影響がみられる作品を制作したり、戦後になると新古典主義の作品を制作したりするなど、さまざまなスタイルを研究し追求した画家でした。そんなドランの作品はどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

《ウェストミンスター宮殿》1906年-1907年

本作品は1906年から1907年に制作された作品で、現在はメトロポリタン美術館に所蔵されています。ドランは1906年よりアンブロワーズ・ヴォラールの招きによりロンドンに滞在し、主に風景画を制作しました。本作品はそうした作品の一つで、フォーヴィスムらしい荒々しいタッチながらも、光の効果を意識した作品になっています。ドランはのちに、同じくロンドンの風景画を多数制作したクロード・モネから影響を受けたと語っており印象派の影響も見て取ることができます。

《テーブル》1911年

本作品は1911年に制作された作品で、現在はメトロポリタン美術館に所蔵されています。ドランはフォーヴィスムの指導者として有名ではありますが、ここでは派手な原色を思いのままに画面に表すことはしていません。テーブルに置かれた皿や水差しなどのモチーフからも、この頃の彼の興味が伝統的な絵画に対して向けられていたことが伝わってきます。

《静物》1932年

本作品は1932年に制作された作品で、現在は日本のポーラ美術館に所蔵されています。ドランは1921年のイタリア旅行を機に、イタリア・ルネサンス時代の作品を模範とした作品を制作するようになり、人物画や静物画を多数制作しています。

本作品はそうした静物画の一つで、明暗表現や立体感を出すことに重きが置かれています。フォーヴィスムの活動をしていた間の作品は対象がデフォルメされ、実際とは違った色彩が使用されていましたが、ここでは徹底して伝統的な技法が守られています。

■おわりに

アンドレ・ドランはアンリ・マティスやモーリス・ド・ヴラマンクらとともにフォーヴィスムの画家として活動した画家です。フォーヴィスムの運動はわずか2年ほどでしたが、キュビスムの影響を受けた静物画や新古典主義の作品、加えてバレエやオペラの舞台芸術などさまざまな分野に挑戦していきました。

第二次世界大戦後はナチスドイツの協力者として画壇から追放され、また晩年には病により視力を失うなど、さまざまな憂き目にあい、1954年には自動車事故で亡くなってしまいます。一時は国内外から高い評価を受けたドランでしたが、悲惨な運命をたどることになってしまうのです。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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