アンリ・マティス:色彩の魔術師

アンリ・マティスはフランス出身の画家です。フォービスムのリーダー的存在として活動したのちも色彩豊かな作品を数多く制作し、「色彩の魔術師」とも呼ばれました。そんなマティスの生涯と彼の作品についてご紹介します。

■アンリ・マティスとは

アンリ・マティスは1869年にフランスのノール県ル・カトー=カンブレジに生まれました。マティスの生家は裕福な穀物商であり、経済的に恵まれた環境で育ちました。1887年には弁護士事務所に就職するためパリに出て法律を学ぶことになります。

1889年、当時21歳のマティスは盲腸を患い療養生活を送っていました。その際に母親から絵を描くことを勧められたことをきっかけに、彼は画家を志すようになります。のちにこの時のことを「天国のようなものを発見した」と語っています。

そうして画家になる決意を固めたマティスは1891年にパリに戻りアカデミー・ジュリアンに入学し、その後もウィリアム・アドルフ・ブグローやギュスターヴ・モローの指導のもと古典絵画から学び、静物画や風景画を描いては基本的な画力を磨いていきました。またジャン・シメオン・シャルダンやニコラ・プッサンなどロココからバロックにかけての古典巨匠たちの作品からも大きな影響を受けました。

(Public Domain/‘John Peter Russell’ Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

また1896年にマティスは印象派画家のジョン・ピーター・ラッセルのもとを訪れるのですが、その際にフィンセント・ヴァン・ゴッホの作品を紹介されます。ゴッホやセザンヌ、シニャック、ゴーギャンなど後期印象派の影響を受けたマティスは徐々に、本来の色に縛られない、自由な色彩による作品を描くようになり、《緑のすじのあるマティス夫人の肖像》や《ダンスI》などの作品を発表するようになります。

このころ同じくモーリス・ド・ヴラマンクやアンドレ・ドランなどもそうした色彩の追及を行っており、その色彩の激しさから「野獣派」と呼ばれるようになっていきました。ただフォーヴィスムとしての活動は1905年から1908年までの3年ほどの間だけであり、マティスはフォービスムの画家としてみなされるのを嫌うようになっていきました。

その後マティスは線の単純化や色彩の純化を追求し、ついにキャンバスから離れて切り絵を新しい表現とするようになります。《ジャズ》シリーズなどの切り絵の作品を多数残しており、はさみはマティスにとって絵筆を超えた存在になっていきました。

晩年になると南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインを担当し、切り絵をモチーフとしたステンドグラスや白タイルに黒の単純な線で描かれた聖母子像は20世紀キリスト教美術の代表作と見なされています。

こうして20世紀を代表する名作を数多く作り上げたマティスは1954年11月3日に、84年の生涯を閉じました。彼はニース近くのノートルダム・ド・シミエ修道院の墓地に埋葬され、そこは現在もマティス愛好家たちが訪れる場となっています。

■アンリ・マティスの作品

マティスは初期こそ伝統的なスタイルの作品を描いていましたが、ゴッホをはじめとしたポスト印象派の画家たちの作品に影響を受け、大胆な色彩の作品に挑戦していくこととなります。徐々に線や色彩は単純化していき、切り絵などの新しい表現方法も取り入れ、マティスならではのスタイルを作り上げていきました。そんなマティスの主要な作品をご紹介します。

《ジャズ》1945年-1947年

ジャズは1945年から1947年に制作された作品で、現在はニューヨーク近代美術館に所蔵されています。《ジャズ》は切り絵の挿絵を含んだ作品集であり、1947年9月30日にテリアード社から出版されました。

マティスは1941年に十二指腸癌を患ってからは、ベッドと椅子で生活せざるを得ませんでした。当然キャンバスに向かい絵を描くことは苦痛以外の何物でもなく、彼は新しい表現方法を追求します。そのような状況で彼が新しい表現手段として見出したのが、切り絵でした。《ジャズ》を制作する際に用いたのはカットアウトと呼ばれる色紙から形を切り出す方法で、マティスは本シリーズの制作に2年もの月日を費やしています。

《ジャズ》にはサーカス団員と思われる人物が描かれており、これはマティスの人生を表しているとも言われています。実際に《ジャズ》にはマティスの自伝的要素が多く含まれており、愛や死、運命といった人生のテーマも表現されている作品となっています。

《音楽》1910年

本作品は1910年に制作された作品で、エルミタージュ美術館に所蔵されています。《ダンス》2作品とともに制作された作品で、青と緑、そして強烈な赤が印象的な作品となっています。

もともとロシアのコレクターであったセルゲイ・シチューキンが《ダンス》を依頼したのちに「音楽」というタイトルの装飾パネルの制作を依頼したことがきっかけで、マティスは下書きもせずに制作に取り掛かりました。そのためキャンバスには多くの変更点が見られ、マティスがよりよい表現とするために試行錯誤した跡を見てとることができます。

《赤いアトリエ》1911年

本作品は1911年に制作された作品で、ニューヨーク近代美術館に所蔵されています。画中に描かれているのはすべてマティスの作品であり、アトリエ内部の壁や置かれた家具も描かれています。何といっても特徴的なのが塗りつくされた赤です。

マティスは三次元の空間を赤一色で表現することで、透視図法を画面から排除し、新しい表現を創り出しました。この手法はマティス独自のもので、《ピンクのアトリエ》など多数の作品でも同様の手法を用いています。赤が壁となり、赤い色そのものが空間を構成するという表現は、当時の画家たちに大きな衝撃を与えました。

■おわりに

アンリ・マティスはもともと法律家を目指していたものの、画家になることを志してアカデミー・ジュリアンに学び、ポスト印象派の画家たちから影響を受け、さまざまな新しい表現を追求していきました。その中には赤で塗りつくして遠近法を排除した《赤いアトリエ》や、十二指腸癌を患った際に絵筆の代わりにはさみを使うようになったことで見出した切り絵など、マティスの表現はこれまでにない斬新なものでした。

マティスはその後も修道院の内装を担当するなど、晩年まで画家として新しい表現を追求し続けました。そのマティスの姿勢の背景には21歳で虫垂炎を患いはじめて絵筆をとったときに感じた「天国のようなものを発見した」という気持ちがあったのかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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