リオネル・ファイニンガー:プリズムの風景画

リオネル・ファイニンガーは1871年にアメリカのニューヨークに生まれた画家です。1880年後半にドイツに向かい、青騎士のひとりとして活動。またバウハウスにて教鞭をとったことでも有名です。ファイニンガーの作品はキュビスムや抽象主義を取り入れた幻想的な風景画が多く、今も高い人気を誇っています。そんなファイニンガーの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■リオネル・ファイニンガーとは

リオネル・ファイニンガーは1871年アメリカ合衆国のニューヨークに生まれました。

(Public Domain/‘Karl Feininger’ Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

父親のカール・ファイニンガーはドイツ系アメリカ人で作曲家であり、ヴァイオリニストでもある人物でした。また母親であるエリザベル・ファイニンガーはアメリカ人歌手であり、両親ともに音楽や芸術に造詣が深く、ファイニンガーもまた幼いことから芸術に興味を持つようになりました。

1887年、ファイニンガーは16歳になるとドイツへ向かい、1888年にはベルリンのプロイセン科学アカデミーに入学、エルンスト・ハンケの指導を受けるようになります。その後カール・シュラビッツの下で学び、パリでは彫刻家であるフィリッポ・カラロッシから指導を受けています。そうして教育を受けたのち、ファイニンガーは風刺画家として画家としてのキャリアをスタートさせました。

1900年になると、ファイニンガーは画家グスタフ・フルーストの娘であるカーラ・フルーストに出会い、1901年には結婚。2人の子供に恵まれますが、1905年には妻と離婚し、1908年にはジュリア・バーグと結婚します。ジュリアとの間には3人の子どもに恵まれました。

風刺画家としてのキャリアは順調であり、ドイツやフランス、アメリカの雑誌に作品が次々と掲載されていきました。

(Public Domain/‘Kin-der-kids’ by Lyonel Feininger. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1906年の2月にはシカゴトリビューンの編集者であったジェームズ・キリーに「キンダーキッズ」や「ウィーウィニーウィンキーワールド」にスカウトされ、そのころファイニンガーは新聞や雑誌で必ず作品が掲載されるほどの人気風刺漫画家となっていました。「マウス」で有名なアート・スピーゲルマンはニューヨークタイムズの書評で、ファイニンガーの作品を「息をのむような優美さのある作品である」と評しており、風刺漫画家としての地位は確固たるものになっていきました。

その一方でファイニンガーはファイン・アートの作品でも名作を残しています。1909年にはベルリン分離派のメンバーとなっており、ブリュッケや青騎士にも参加しており、1919年にはヴァルター・グロピウスが校長をつとめたバウハウスで教員を務めることになります。またファイニンガーは、グロピウスによる「バウハウス宣言」のパンフレットの表紙も制作し、前衛芸術家としてもその地位を高めていきました。

しかしその後ナチスドイツが台頭すると、ファイニンガーは妻がユダヤ系であったこともあり、厳しい立場に追い込まれていきます。1933年にはナチスが政権を握り、そのあおりを受けてバウハウスは閉鎖。ナチスはファイニンガーの作品を退廃芸術と認定し、退廃芸術展に展示されるという屈辱を味わうことになってしまいます。こうした状況からファイニンガーはニューヨークへ戻ることを決意し、ミルズカレッジで教鞭をとったのちにニューヨークへ帰還。1955年にはアメリカ芸術アカデミーの会員に選ばれたのち翌年84歳で生涯を閉じています。

ファイニンガーの息子アンドレアス・ファイニンガーは写真家に、T・ルックスファイニンガーは写真家兼画家となり、ファイニンガー家は20世紀の芸術史に残る作品を残したのです。

■ファイニンガーの作品

ファイニンガーは風刺画家としてキャリアをはじめたということもあり、初期の油彩画にはカリカチュア的な表現が見られます。鮮やかな色彩やまるでストーリーを想像させるような人物画はポスターや絵本の挿絵のようであり、ファイニンガーの中で商業美術と純粋美術が密接に関係していることがわかります。

パリ時代にはパブロ・ピカソの影響を受けたということもありキュビスムや表現主義を融合させた作風が増え、ファイニンガーの代名詞であるプリズムを通してみたような風景画が主となっていきました。その後ニューヨークに戻った後は失望感から画風が大きく変化しており、生涯にわたって大きく画風が変化し続けた点はファイニンガーの特長といえます。

そんなファイニンガーの作品はどのようなものだったのでしょうか。主な作品を中心にご紹介します。

《ゲルメローダ》1913年

本作品は1913年に制作された作品で、現在は個人蔵になっています。プリズムをのぞきこんだような表現はファイニンガー特有のもので、本作品はドイツのワイマール近くにあるゴシック教会のゲルメローダを描いたものです。ファイニンガーの多くの作品は14世紀の建築物を描いたものであり、ファイニンガーは建築物を過去と現在をつなぐものとして考えていました。本作品にはキュビスムやイタリア未来派の影響が強く、ファイニンガー自身の探求のあとを見て取ることができます。

作品は1937年ナチスドイツによる「退廃芸術展」に展示されてしまい、それに失望感を覚えたファイニンガーはアメリカに帰国し、ヨーロッパに戻ることはありませんでした。

《アルクイユのカーニバル》1911年

本作品は1911年に制作された作品で、現在はシカゴ美術研究所に所蔵されています。本作品のモチーフとなっているのは、フランスのアルクイユの街で開催されたカーニバルであり、アルクイユは毎年数カ月滞在するほどのお気に入りの地でした。

本作品にはカーニバルで街を行進する人々や建物の描き方に風刺画の影響がみられるものの、色使いでは黄色やピンク、グリーンなどが彩度高く用いられるなど、ヴィンセント・ファン・ゴッホの影響が見られます。

《ゲルメローダXIII》1936年

本作品は1936年に制作された作品で、現在はメトロポリタン美術館に所蔵されています。ファイニンガーはゲルメローダの教会を好んでモチーフとして描いており、1913年から1936年にかけて多数のドローイングと油彩画を残しています。

■おわりに

リオネル・ファイニンガーは音楽や芸術に造詣の深い両親のもとに生まれ、ヨーロッパに渡って美術教育を受けると、風刺画家としてのキャリアをスタートさせました。初期こそ風刺画としてのイメージが強いものの、パブロ・ピカソやイタリア未来派の作品に影響を受けると、キュビスムや未来派の影響がみられるようになり、その作風はまるで万華鏡のように変化していきました。

ファイニンガーはナチスドイツの台頭によってヨーロッパを追われ、アメリカに戻らざるを得なくなってしまいますが、多数の写真作品を制作するなど、新しいジャンルに挑戦しており、芸術家として生涯チャレンジを続けた人物でもあります。またピアニストや作曲家としても活動するなど、その活動は多岐にわたっていました。

2011年から2012年にはホイットニー美術館やモントリオール美術館で回顧展が行われ、あわせてカーネギーホールでファイニンガーのオーケストラフーガが開催されるなど、音楽家としても再評価が高まっています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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