ピエール・ボナール:ナビ派の創設者

(Public Domain/‘Self-Portrait’ by Pierre Bonnard. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

ピエール・ボナールは版画やポスターなど絵画にとどまらず様々な作品を制作したことで知られており、日本美術の影響を色濃く受けたことでも有名です。また室内情景などの身近なモチーフを好んで描いたことから、「アンティミスト」とよばれています。そんなボナールの生涯と作品とは、どのようなものだったのでしょうか。

■ピエール・ボナールとは

ピエール・ボナールは1867年、オー=ド=セーヌ県フォントネー=オー=ローズに生まれました。父親はフランス陸軍省の役人であり、比較的恵まれた経済環境だったといわれています。父親の教育方針により、ボナールは法学部に入学し、1888年には弁護士として働き始めることになります。しかしボナール自身は芸術に強い関心を抱き続けており、エコール・デ・ボザールやアカデミー・ジュリアンなどに通い、画家としての一歩を踏み出します。

またこの時期ボナールはポール・セリュジエやモーリス・ドニと出会っており、同時代の画家たちからも影響を受ける環境にありました。1888年にはセリュジエを中心として画家たちのグループを結成し、このグループはのちにナビ派と呼ばれることになります。

ナビ派とは1888年にセリュジエを訪れた際、ポール・ゴーギャンと出会った際の出来事がきっかけで発足したグループです。ゴーギャンはセリュジエに「あの樹はいったい何色に見えるかね。多少赤みがかって見える?よろしい、それなら画面には真赤な色を置きたまえ…。それからその影は?どちらかと言えば青みがかっているね。それでは君のパレットの中の最も美しい青を画面に置きたまえ…。」とアドバイスしたといわれており、アカデミーで教わっていた正確な描写から全く離れた表現にセリュジエは衝撃を受けます。セリュジエはパリに戻り、アカデミー・ジュリアンの仲間たちにその出来事を伝え、それに共鳴した者たちでナビ派が結成されたのです。

こうした背景もあって、ナビ派の表現は19世紀において主流であった写実主義を否定し、芸術の装飾性を追求するものになっていきました。ナビ派の画家たちはセザンヌやルドンに畏敬の念を払い、また日本の浮世絵版画から空白部分や線の要素を意識する方法を取り入れたのです。

1891年にボナールは雑誌『ラ・レビュー・ブランシェ』に作品を掲載するようになり、エドゥアール・ヴュイヤールとともに扉絵を担当するようになっていきました。また1893年にはマルトと呼ばれている後の妻マリア・ブールサンと出会い、マルトをモデルとして多数の作品を描いていきました。ボナールは初期から高い評価を受けており、1896年にはデュラン・デュエル画廊で初めての個展を開催しています。

こうした絵画作品の制作に加えて、ボナールはポスターや書籍のイラストレーションの仕事も請け負っていました。それに加えて舞台芸術や版画制作の仕事もこなすなど、ボナールの制作活動はキャンバスにとどまらず、さまざまな形で世に出ていくことになります。

ボナールの生涯はほかの画家たちと比べると比較的穏やかなもので、画家としての活動は60年近くに及びましたが、そのほとんどが安定したものでした。そのためかボナールは日常の風景を好んで描いており、「私が描く主題はすべて身近にある」「私は主題のある場所に戻って見直すことはなく、ノートを取る。その後、家に帰りノートに記載した事を反映するように絵を描きはじめる」と語っています。

(Public Domain/‘White interior’ by Pierre Bonnard. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

こうした制作スタイルから「アンティミスム」と呼ばれており、妻マルトを中心に自画像や風景画、静物画など穏やかな主題を好んで描いていきました。

晩年になると1938年にはシカゴ美術館でエドゥアール・ヴュイヤールとともに展覧会を開催、1948年にはニューヨーク近代美術館で大回顧展が開催されるなど、まさに巨匠として認知されていきました。ボナールはニューヨーク近代美術館で行われた展覧会を目にすることなく、1947年、ル・カネでなくなっています。

ボナールの作品

ボナールの作品はアンティミスムの画家といわれている通り、日常の生活を描いているのが大きな特徴です。家族や友人たちと庭で楽しんでいる様子や室内風景のありふれた描写などを好んで描いており、そうしたスタイルはのちの画家たちに大きな影響を与えました。

またこうした穏やかな画風に反して、激しい色使いや複雑な構図はボナールらしい特徴です。これはナビ派の画家たちに共通する特徴であり、ゴーギャンや日本の浮世絵から影響を受けたものと考えられます。そんなボナールの作品とはどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

《ラ・ルヴュ・ブランシュ》1894年

(Public Domain/‘Le Revue blanche’ by Pierre Bonnard. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1894年に制作された作品で、現在はニューヨーク近代美術館などに所蔵されています。ボナールは初期のキャリアにおいて演劇のプログラムや展覧会の告知などの挿絵画家として活動しており、その点数は120以上におよびます。本作品はそうした作品の一つです。

「ラ・ルヴュ・ブランシュ」は1890年代の著名な文芸誌であり、ボナールはもちろんエドゥアール・ヴュイヤールらはこうした文芸誌に作品を掲載することで、画家としてのキャリアを築いていきました。ボナールは本作品において、現代風の落ち着いた女性とやんちゃな子供という対照的なイメージやリトグラフならではの色合いを追求しており、大胆な表現が生み出されています。

《庭の女たち》1891年

(Public Domain/‘Woman in the Garden’ by Pierre Bonnard. Image via WIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain/‘Woman in the Garden’ by Pierre Bonnard. Image via WIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain/‘Woman in the Garden’ by Pierre Bonnard. Image via WIKIMEDIA COMMONS)
(Public Domain/‘Woman in the Garden’ by Pierre Bonnard. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1891年に制作された作品で、現在はオルセー美術館に所蔵されています。《庭の女たち》は4つのパネルから構成されており、屏風風に仕立てられています。

ボナールは「日本かぶれのナビ」と呼ばれるほど日本かぶれで知られており、人物の平坦なシルエットや平坦な背景になどに日本美術から強い影響を受けていることが伺えます。絵画のすべての要素は装飾的なものとなっており、いかにボナールが極東の芸術に関心を示していたかが強く表されています。

《フランス窓(ル・カネの朝)》1932年

(Public Domain/‘The French Wiindow’ by Pierre Bonnard. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1932年に制作された作品で、現在は個人蔵となっています。ル・カネはカンヌの北に位置する小さな町で、ボナールは1926年に家を購入し1931年から1947年に亡くなるまでそこに住み続けました。

作品に描かれている女性は妻マルトであり、ボウルを傾けてなにかを混ぜ合わせることに熱中しています。その手の周りには鉛筆の跡や絵の具の上から引っかいたり刻み込んだりした跡があり、ボナールが手の力強さを表現するために試行錯誤した様を感じ取ることができます。

■おわりに

ピエール・ボナールはフランス、オー=ド=セーヌ県・フォントネー=オー=ローズに生まれ、弁護士として働き始めるも、絵画への情熱を抑えることができず、ポール・セリュジエらとナビ派を設立。その後は日常生活をモチーフにして制作活動を行う「アンティミスムの画家」として多数の作品を残しました。

ボナールの画家としての人生はほかの画家に比べると比較的穏やかなものでしたが、その激しいタッチや日本美術の影響からと思われる画面構成など、ボナールがさまざまな研究を行ったうえで作品を制作していることがわかります。身近なモチーフでありながら、新しい側面を見つけることができる、それがボナール作品の大きな魅力なのかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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