オーギュスト・ロダン:近代彫刻の父

(Public Domain/‘Auguste Rodin’ by Félix Nadar. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

オーギュスト・ロダンは1840年にフランス、パリに生まれた彫刻家です。伝統的な美術学校では評価されなかったものの、あきらめずに制作を続け、現在では19世紀を代表する「近代彫刻の父」と評されています。そんなロダンの生涯と作品とは、どのようなものだったのでしょうか。

■オーギュスト・ロダン

フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダンは、1840年パリの労働者階級の家庭に生まれました。ロダンが芸術に関心を持つようになったのは10歳の時に初めて絵を描いたことがはじまりとなります。14歳のときに工芸学校に入学、ルコック・ボードランに指導を受けるようになります。ボードランは子どもたちに絵画やデッサンを教えていた教員で、最初にロダンを評価した人物として知られています。ロダンは17歳で工芸学校を退学しますが、ジュール・ダルー・アルフォンソ・ルグロなど同時代の画家たちと知り合うなど、工芸学校での日々は実りの多いものでした。

工芸学校を退学したのち、専門的な学びを求めたロダンはエコール・デ・ボザールに志願します。しかし三度にわたり不合格となってしまったため、室内装飾の職人として働くことに。一説にはエコール・デ・ボザールでの新古典主義に反した作風の作品が提出されたため、入学が拒否されたのではないかといわれています。

1863年になると恋人との失恋で精神を病んでいた姉マリアが死去。その恋人を紹介したのはロダン自身であったため、激しい罪悪感で苦しみ、修道士だった姉を追いかけるようにして修道院に入会することになります。そこで美術から神学へと進むべき道を変えようとしたものの、ロダンの指導に当たることになったピエール・ジュリアン司教は、美術の道に進むべきであると諭し、ロダンは修道会を離れます。

ロダンは動物彫刻で有名だったアントワーヌ=ルイ・バリーに弟子入り、24歳のときには裁縫職人のローズと知り合い、正式な夫婦になることなく長男を授かります。家族を支えるために装飾職人として順調に働いていたものの、普仏戦争が勃発すると仕事が減り、生活が苦しくなり始めます。これを転機と考えたロダンはベルギーに移住し、ブリュッセル証券取引所の建設作業に参加することになりました。さまざまな理由から6年間ベルギーに滞在していたものの、1875年には親方と関係が悪化したことにより仕事を辞め、念願であったイタリア旅行へ出発。そこでミケランジェロやドナテッロの彫刻に衝撃を受けたロダンは、彫刻家として大成する意志を新たにします。ベルギーに戻ると早速《青銅時代》と題した等身大の男性像を制作し始めました。

《青銅時代》はオーギュスト・ネイトという人物をモデルにした作品で、きわめてリアルな作品であったため「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられてしまいます。

それにひどく腹を立てたロダンは2年後に最初の作品よりもかなり大きい彫刻作品を作り、作品がロダンの手によるものと分かった審査員たちは大きな称賛の言葉を贈り、才ある彫刻家としてロダンの名前はフランス全土に広まっていきました。

1880年にはダンテの「神曲」を題材にした《地獄の門》を制作。

(Public Domain/‘Camille Claudel’ by William Elborne. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

この時にはすでに有名な彫刻家となっていたロダンは弟子としてカミーユ・クローデルを指導していましたが、その若い才能と魅力に夢中になってしまいます。15年に渡り、ロダンとローズ、カミーユの三角関係が続くものの、ローズが病に倒れたことをきっかけにロダンはローズの元に戻りました。カミーユはそのショックで精神のバランスを崩し、精神病院に入院。その後カミーユは毎朝病院構内の礼拝堂に向かい祈り、誰とも口をきこうとせず、1943年に78歳でその生涯を閉じています。

1917年になるとローズの病状はより深刻なものになり、それをきっかけとしてついに二人は結婚。ロダン77歳、ローズ73歳の時でした。その後ローズは帰らぬ人となり、さらにその9ヶ月後にロダンもその生涯を閉じました。ロダンの最期の言葉は、「パリに残した、若い方の妻に逢いたい」だったといわれています。

■ロダンの作品

ロダンの作品はそれまでの彫刻作品に比べ、力強いフォルムとまるで生きているようなリアルさが特長です。アカデミーで好まれていたのは新古典主義であったためにエコール・デ・ボザールに入学することはできなかったものの、人間で型を取ったのではないかと疑われるほどの表現力は、当時のフランス芸術界に強い衝撃を与えました。そんなロダンの作品はどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

《考える人》

現在はロダン美術館をはじめとしてバチカン美術館、クリーブランド美術館など世界各地に所蔵されています。《考える人》は国立美術館建設の際に依頼された門を制作する際に作られた《地獄の門》の一部分として制作されました。

はじめは「詩想を練るダンテ」と名付けられていたものの、のちに「詩人」とタイトルが変更されています。また一説にはロダン自身を表しているのではないかとする説もあり、カミーユとローズの間で揺れ動くロダンなのではないかともいわれています。実際に《考える人》が見降ろす地獄の中にはカミーユやローズとの間にできた子どもが彫られており、《地獄の門》制作時のロダンの心情をそのまま表しているかのようです。

《地獄の門》

本作品は1888年国立美術館建設の際に設置するモニュメントの依頼を受けて制作したもので、ダンテの「神曲」地獄篇に登場する地獄の門をモチーフとして制作したものです。《地獄の門》の一部として有名な《考える人》はもちろん、門全体にちりばめられた地獄で苦悩する人々を描くためにロダンは粘土や水彩画などで構想を練っていきましたが、なかなかまとまることはありませんでした。

《地獄の門》制作の際にはロダン自身カミーユ・クローデルと関係を持つなど、スキャンダルの中にあり、また1888年には美術館建設の計画自体が白紙に戻ったことで、ロダンのもとには「地獄の門」制作中止命令が届いてしまいます。ロダンはこれを断り、自腹で《地獄の門》を制作し続けましたが、これはカミーユと妻ローズとの間で揺れ動くロダン自身の「地獄」を表現するものになっていたからではないかといわれています。

《カレーの市民》

本作品はカレー市庁舎やロダン美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館などに所蔵されています。本作品はイングランド王エドワード3世がクレシーの戦いでカレー市を包囲した際の出来事が題材となっており、エドワード3世の求めによってカレー市の市民6人が裸に近い格好で城門のカギをもっていかなくてはなりませんでした。そしてその6人は処刑される運命にあったのです。

このモニュメントは普仏戦争敗北により亡くなった若者の犠牲を尊ぶためにカレー市長から提案されたものでしたが、そのやせ衰えたカレー市民の姿から戦争の英雄を想像する者は少なく、スムーズに人々に受け入れられることはありませんでした。

おわりに

オーギュスト・ロダンは幼いころから芸術に関心を持ち、彫刻家となることを志しますが、エコール・デ・ボザールに入学ことは叶わず、室内装飾職人として働きながら彫刻家になる道を模索していきました。そんなロダンの作品は人間の内面までも浮かび上がるような表現かあふれており、今もなお世界中の人々を惹き付け続けています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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