エミール・ガレ:自然とガラス工芸

(Public Domain/‘Self-portrait’ by Émile Gallé. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

シャルル・マルタン・エミール・ガレは1846年フランス、ロレーヌ地方のナンシーで生まれました。その自然のモチーフを工芸に取り込んだ独特の表現は一躍当時のパリで大人気になり、アール・ヌーヴォーを代表する芸術家となっていきました。そんなガレの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■エミール・ガレとは

シャルル・マルタン・エミール・ガレは1846年フランス、ロレーヌ地方のナンシーで生まれました。家族はファイアンス焼きと家具の工場を営んでおり、もとから工芸に親しみやすい環境で育っていきました。1858年にナンシー帝立高等中学校に入学、修辞学や文学、哲学、植物学などで優れた成績を収め、1865年からは2年間ドイツのヴァイマルでドイツ語とデザインを学んでいます。またマイゼンタールのブルグン・シュヴェーラー社でガラス製造の技術も習得しています。

1870年になると普仏戦争が始まり、ガレは義勇軍に志願します。しかし戦況は圧倒的にプロシア軍に傾いており、1871年にはプロシア軍がパリに入城。フランスは敗戦国となり、フランクフルト条約で領土を割譲しなくてはなりませんでした。そのなかにはガレの故郷であるロレーヌ地方の一部も含まれていました。

1877年に父親に変わって工場責任者になると、1878年には独自に開発した「月光色ガラス」をパリ万国博覧会に出品。「月光色ガラス」とは酸化コバルトによって淡青色に発色させた素地を用いたもので、ガレはこの作品で銅賞を受賞。また庭園装飾のための陶器で銀賞を受賞し、注目される存在となっていきました。

1885年になると、ガレにとって転機となる出来事が起こります。ナンシー水利森林学校に留学中であった農商務省官僚であった高島得三と交流をもつようになるのです。高島は美術に造詣が深いことで知られており、ガレは高島を通して日本の文様や植物などの知識をみにつけ、工芸品に活かすことを考えるようになっていきます。また高島は水墨画を得意としており、ナンシー留学中に400点ほどの作品を描いていました。ガレも高島から2点の水墨画を譲られており、これをきっかけとして水墨画的な表現を用いた黒褐色のガラスを開発するようになっていきました。

また1889年のパリ万博においても大量の作品を出品。ガラス部門ではグランプリ、陶器部門や家具部門でも高く評価され、ガレの名前は国内ではもちろん、国外においても有名になっていきました。1894年にはガラス製造のための工場を完成させ、独自の技術である「マルケトリ技法」や「パチネ素材」といった技術で特許を取得しています。マルケトリとはガラスパーツをガラスへ象嵌する方法で、パチネとは「古色をつけた」という意味であり、ガラスの表面を曇らせたり、濁らせたりする技法のことを指します。いずれもガレのガラス作品の大きな特徴のであり、その独特の表現を生み出すためには欠かせない技法のひとつでした。

1900年のパリ万博においても大量のガラス作品や家具を出品し、再びグランプリを獲得。1901年にはエコール・ド・ナンシーの会長に就任したものの、白血病により徐々に体調を崩し、1904年には58歳の生涯を閉じることになってしまいます。その後ガレの工房はヴィクトール・プルーヴェと夫人のアンリエットによって経営が続けられ、ガレの意志は引き継がれていきました。

■ガレの作品

エミール・ガレのガラス作品は動植物をモチーフとして、自然の躍動感を吹き込んだかのような独特な表現が特徴的です。すみれやチューリップなどの花々はもちろん、今にも動きそうな蝶々やトンボなどが作品に埋め込まれており、そのリアルな表現力はガレが幼いころに学んだ植物学の知識が活かされているのでしょう。

ガレが生きた19世紀後半は機械化が進んだ時代であり、大量生産された品々が安価に広まる時代でもありました。そうした便利さの反面、人々は手仕事の美しさや自然の生き生きとした様子に関心を抱くようになり、ガレのガラス作品はそうした時代の流れを汲んだものでした。以下ではそんなガレの作品のうち、主要な作品を中心にご紹介します。

《オルフェウスとエウリディケ》1889年

本作品は1889年に制作された作品で、現在はパリ装飾美術館に所蔵されています。オルフェウスとはギリシア神話に登場する吟遊詩人で、その妻エウリュディケが毒蛇に噛まれ死んだときに、妻の命を取り戻すために冥府に入ったというエピソードが有名です。オルフェウスは竪琴の名人であり、冥界の王ハデスとペルセポネにその腕前を披露すると「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件をつけ、エウリュディケを地上に戻すことを許します。しかしオルフェウスはその言いつけを破ってしまい、エウリュディケと共に地上に戻ることはできなかったのです。

※画像はイメージです

本作品で表現されているのは、黒いクリスタルの中に今にも消えようとするエウリュディケとそれを救おうとするオルフェウスの姿です。高島との出会いによって学んだ水墨画の表現がガラス全体に活かされており、作品全体をドラマチックなものに仕立て上げています。それまでガラスというと透き通って明るいものであると思われていたため、ガレが開発したこの黒いガラスは人々に大きな衝撃を与えました。

《蜻蛉》1903年-1904年

本作品は1903年から1904年に制作された作品で、現在は日本のサントリー美術館に所蔵されています。うっすらと光が透けるガラスには表と裏にトンボがはめ込まれており、その立体的な表現から、まるで本当にトンボが張り付いているかのような印象を持たせます。

※画像はイメージです

この作品が制作された時期はガレが白血病に苦しんでいた時期であり、1904年には58歳で亡くなっています。ガレはその直前に5点から6点トンボをモチーフにした作品を作っており、まるで形見分けのように友人に贈っています。作品に表現されたトンボはもしかしたらガレ自信を表現したものだったのかもしれません。

■おわりに

エミール・ガレはアール・ヌーヴォーを代表するガラス工芸家であり、自然や日本美術をどん欲に学び、これまでにない新しい表現を切り開いていきました。

そのモチーフは植物や昆虫、魚や神話など多岐にわたり、技術面でもエナメルやカメオ彫り、マルケトリやエッチンググラヴュールなどあらゆる方法を取り入れ、ジャポニスムはもちろんペルシャや古代エジプトなどにも興味を示すなど、作品をよりよいものにするためにはあらゆる技法やあらゆる文化を学ぶ意欲的な芸術家でした。またその一方で一般に販売する作品と芸術作品を分けて考え、作品制作を行うなど、芸術家やデザイナーとしての自身と経営者としての自身を使い分けることができる稀有な人物でもありました。

1914年から1918年の第一次世界大戦においてガレの工場は一時製造を中止、1918年には娘婿のポール・ペルドリーゼによって製造を再開したものの、1931年には会社は解散し、工場の敷地は売却されてしまいます。今ではガレの工場で新しい作品が生み出されることはありませんが、世界各地の美術館やギャラリーで人々を惹き付け続けています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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