アルフォンス・ミュシャ:アール・ヌーヴォーの巨匠

(Alphonse Mucha wax figure at Madame Tussauds)

アルフォンス・ミュシャは1860年のオーストリア、モラヴィアに生まれたグラフィックデザイナーかつ、画家である人物です。華麗な曲線を多用したデザインは当時の芸術界で絶賛され、イラストレーションと絵画の両方で20世紀美術に残る名作を数多く残しました。そんなミュシャの生涯と作品とはどのようなものだったのでしょうか。

■アルフォンス・ミュシャとは

アルフォンス・ミュシャは1860年オーストリア、モラヴィア地方の村イヴァンチツェに生まれました。1871年にはブルノにあるサン・ピエトロ大聖堂の少年聖歌隊に加入し、中等教育をうけます。サン・ピエトロ大聖堂の装飾は豪奢なバロック時代の物であり、このころ目にした教会の装飾がのちのミュシャの作品に影響を与えたそうです。

ミュシャは当初音楽家になることを志していましたが、1875年ごろには声が出なくなり断念。音楽と同様に強い関心を抱いていた絵の道に進みたいと考えるようになります。ミュシャは夏休みに合唱隊の聖歌集の表紙を描くなど、絵を得意としており、まだ美術の正規教育は受けていなかったものの、才能の片鱗を見せるものになっていました。

19歳でウィーンに行き、舞台装置を作る工房で働きながら夜間のデッサン学校に通うようになります。1883年にはクーエン・ブラシ伯爵に出会い、その弟エゴン伯爵がパトロンになってくれることになりました。エゴン伯爵の後押しのお陰で念願であったミュンヘン美術院に入学。その後アカデミー・ジュリアンでも学んでいます。

(Public Domain/‘Gismonda’ by Alfons Mucha. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

そんなミュシャの転機となったのは、1895年舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために依頼された「ジスモンダ」のポスターを制作したことでした。画家たちが休暇でいない年の瀬に舞い込んだこの依頼に対応できるのは印刷所で働いていたミュシャしかおらず、しかも翌年の1月1日までにポスターを用意しなくてはなりませんでした。ミュシャはその期待に応え、12月31日にはポスターが完成。「ジスモンダ」のポスターを見たベルナールは「なんて素晴らしいの!これからは私のために描いて」と叫んだといわれています。また当時のパリにおいても大きな評判となり、それからミュシャはアール・ヌーヴォーを代表する芸術家として認められるようになっていきました。

その後は煙草用の巻紙やシャンパン、自動車など数多くのポスター制作を行い、優美な女性と美しい自然をモチーフにしたポスターはその都度パリの人々を魅了していきました。そうした功績もあってアメリカの大富豪チャールズ・クレーンがパトロンになってくれることになり、経済的な心配をすることがなくなったミュシャは1910年にチェコに帰国。20点の絵画からなる《スラヴ叙事詩》や1918年オーストリア帝国崩壊によりチェコスロバキア共和国が成立したことによる紙幣や切手などのデザインを行っています。また財政難の中にあった新しい共和国のことを慮り、デザインは無報酬で引き受けるほどミュシャの愛国心は強いものでした。

しかしナチスドイツが台頭し、ヒトラーが政権を握ると1939年にチェコスロバキア共和国は解体。プラハに入場したドイツ軍によってミュシャは逮捕されてしまいます。ミュシャの作品はチェコスロバキアの国民の愛国心を刺激する、という理由からナチスドイツはミュシャを厳しく尋問し、それは78歳となっていたミュシャにとってとても耐えられないものでした。ミュシャは釈放されるものの、4か月後には体調を崩し、1939年7月14日に死去。ヴィシェフラット民族墓地に埋葬されています。チェコスロバキアが独立を果たしたのちも、共産党政権は愛国心の高まりを警戒し、ミュシャの存在を黙殺し続けましたが、プラハの春の翌年にはミュシャの作品の切手が発行され、現在ではアール・ヌーヴォーの巨匠として世界的に高い評価を受け続けています。

■ミュシャの作品

ミュシャの作品の特長は何といってもその線の優美さと、植物をモチーフとした装飾です。その美しさは舞台女優サラ・ベルナールをはじめとしたパリの人々を魅了しました。またミュシャは《スラヴ叙事詩》をはじめとした愛国心をテーマとした作品をライフワークとして制作し続けており、その表現力の高さは当時のナチスドイツが危機感を覚えるほどでした。そんなミュシャの作品とはどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

《「メディア」のためのポスター》1898年

(Public Domain/‘Medea’ by Alfons Mucha. Image via WIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1898年に制作された作品で、現在ミュシャ美術館に所蔵されています。「メディア」はサラ・ベルナール主演によりルネサンス座で上演された舞台で、もともとは古代ギリシアのエウリピデスによる悲劇です。メディアはギリシアの一地方コルキスの王女であり、太陽神ヘリオスの子孫という高貴な女性でした。彼女は英雄イアソンを助け、二人は夫婦になるものの、コリントスでイアソンはコリントス王クレオンの娘グラウケーと恋に落ちてしまい、メディアは捨てられてしまいます。メディアは怒り狂い、クレオンやグラウケー、そしてイアソンとの間に生まれた二人の息子までも手にかけてしまうのです。

本作品ではサラ・ベルナール演じるメディアが黒い衣に身を包み、ナイフを持ちながらこちらを見つめています。右下にはメディアが殺害したのであろう子どもが死体となって転がっており、悲劇のワンシーンを表現しています。

背景には赤い太陽が描かれ、左側には日本の落款のような赤い印が描かれています。このスタイルは当時流行していたもので、ジャポニスムの影響を受けた作品といえます。

《スラヴ叙事詩》1910年から1928年

本作品は1910年から1928年にかけて制作された作品で、現在はプラハ国立美術館のヴェレトゥルジュニー宮殿に展示されています。題材となっているのはチェコやスラヴ民族の伝承や神話、歴史などで、全部で20 作品あり、サイズは小さいものでもおよそ4×5メートル、大きいものでは6×8メートルという壁画に近い作品です。

1900年のパリ万国でボスビア・ヘルツェゴビナ館の内装を依頼されたミュシャは、スラヴ民族の歴史を調査していた時にこの壮大な作品の制作を思いついたと考えられています。しかし当然のことながら制作のためのまとまった資金が必要であり、ミュシャはなかなか制作に着手することができませんでした。しかしアメリカの富豪チャールズ・クレーンと知り合い、クレーンがスラヴ民族の歴史に興味を示したことで資金援助を得られることになりました。この援助のおかげでミュシャは20年近くに渡り本作品を制作していくことになります。

ミュシャは本作品によってスラヴ民族の意識高揚をもくろんでいましたが、近代国家となったチェコにおいては歴史や寓意めいた表現は必要とされず、時代に合わないものとされてしまった時代もありました。しかし1928年に全作品が完成するとヴェレトゥルジュニー宮殿で展示され、スラヴの人々の宝として大切にされ続けています。

■おわりに

サラ・ベルナールのポスターでアール・ヌーヴォーの寵児となったミュシャですが、その晩年はナチスドイツによる迫害を受け、厳しい時代を過ごさなくてはなりませんでした。しかし終戦、そしてプラハの春を経てミュシャの作品は再度評価されるようになり、世界中の人々がその作品に魅了され続けています。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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