カミーユ・ピサロ:後期印象派を導いた画家

カミーユ・ピサロは1830年デンマーク領時代のセント・トーマス島に生まれた画家です。ギュスターヴ・クールベやジャン=バティスト・カミーユ・コローなどから学んだ後、印象派展に参加。その後はジョルジュ・スーラ、ポール・セザンヌ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャンといった後期印象派を導き、19世紀、20世紀美術の発展に寄与しました。そんなピサロの生涯と作品とは、どのようなものだったのでしょうか。

■カミーユ・ピサロとは

※画像はイメージです

ジャコブ・アブラハム・カミーユ・ピサロは、1830年7月10日デンマーク領時代のセント・トーマス島に生まれました。父親はポルトガル系ユダヤ人の移民で、金物店を営んでおり母親はセント・トーマス島出身のフランス系ユダヤ人でした。

ピサロは12歳になるとパリ近郊のパッシーにあるサバリー・アカデミーに入学し、ドローイングやペインティングなどを学びます。学校を運営するサバリーはピサロの才能を見抜き、山や草原など自然を描写する風景画家になることを薦めました。しかしピサロの父が家業を継いでくれることを望んでいたこともあって、卒業後は貨物員の仕事に就くことになります。就職後も画家への夢を諦めきれなかったピサロは、仕事後や休憩中にドローイングの練習を続けていくことになります。

※ピサロが描いたフリッツ・メルビューの肖像画
(Public Domain/‘Portrait of the Painter Fritz Melbye’ by Camille Pissarro. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

1850年に世界各地の港の風景を描いたことで知られるフリッツ・メルビューがセント・トーマス島に移住してくると、ピサロは専業画家として独立することを決意し、メルビューに教えを乞うようになります。その後ピサロは家族や仕事を捨て、1852年にはメルビューと共にベネゼエラに移住。移住後は毎日自然や村の風景を描いては、多数の作品を残しました。1855年になるとパリに移住。芸術の都で画家として活動する一歩を踏み出すことになります。

パリではエコール・デ・ボザールやアカデミー・シェイスの学校などで学びはしたものの、その環境はピサロにとって息苦しく感じるようになってしまいます。ピサロにとっては学校で学ぶよりも同時代に活躍ていたクールベ、シャルル=フランソワ・ドービニー、ジャン=フランソワ・ミレー達から表現や技術を学んだ方が、ピサロにとってその後有益なものとなっていきます。

(Public Domain/‘Donkey in Front of a Farm, Montmorency’ by Camille Pissarro. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

こうしてパリでたくさんの刺激を受け学ぶうちにピサロの技術はサロンで展示できるレベルに達していき、1859年には《モンモランシーの風景》が入選しています。

(Public Domain/‘Jalais Hill, Pontoise’ by Camille Pissarro. Image viaWIKIMEDIACOMMONS)

その後、クロード・モネ、アルマン・ギヨマン、ポール・セザンヌと知り合い、交流を深めるようになります。サロンに作品を発表し続け、1868年に《ジャレの丘》や《エルミタージュ》が入選。自他ともに認める画家になっていきます。1860年代の終わりにはバジール、ルノワール、ドガ、ファンタン=ラトゥール、フェリックス・ブラックモンといった画家たちがバティニョールのカフェ・ゲルボワに集まるようになり、「バティニョール派」と呼ばれるようになっていました。ピサロはこのグループの中で最年長であり、温和な人柄から、仲間から慕われ尊敬を集める存在になっていきます。

1870年になると普仏戦争が始まり、ピサロは家族を連れてロンドンに逃れることにします。ロンドンでは画商ポール・デュラン=リュエルと知り合い、その後印象派の画家たちにとって重要な取引相手となりました。

戦後ピサロがフランスに帰国するとオワーズ川のほとりにあるポントワーズのエルミタージュ地区に住み、農民や市場の様子などを描くようになっていきました。またセザンヌ、モネ、マネ、ルノワール、ドガらとともに「画家・彫刻家・版画家の共同出資会社」の設立に参加。これをもとに1874年には最初の印象派展が開催されることになります。

ピサロはその後すべての印象派展に参加するものの、どんどんと新しい表現を追求するようになっていきます。1884年にピサロは画商のテオ・ファン・ゴッホからフィンセント・ファン・ゴッホを紹介されたり、またジョルジュ・スーラやポール・シニャックらに出会い、点描法を目の当たりにします。こうした表現にピサロは刺激を受け、スーラやシニャック、ゴーギャンといった新印象派の作家たちを印象派展に招待をします。しかし新印象派の画家たちの表現に否定なモネやルノワールらは参加を見合わせることにします。

その後ピサロ自身も新印象派の表現を取り入れはしますが、あまりに人工的で性に合わないのと、新印象派の限界を感じ結局以前のスタイルに戻ることになりました。

また晩年になると目の病気にかかり、暖かい天候の時以外、屋外で制作することが困難になっていました。そのためフランス北部に移り制作活動を続けたものの、1903年には前立腺の感染症で死去。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されています。

■ピサロの作品

ピサロは印象派の画家たちを励まし、新印象派の画家たちの表現を見出したということで、印象派の画家たちの父親的な存在としてよく論じられます。もちろんピサロは優れた画家であり、コローの影響を受けた明るい写実的な描写は当時のフランスにおいてとても人気がありました。そんなピサロの作品とはどのようなものだったのでしょうか。主要な作品を中心にご紹介します。

《ルーアンの旧市場とエピスリー街》1898年

(Public Domain/‘Rue de l’Épicerie, Rouen’ by Camille Pissarro. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1898年に制作された作品で、現在はメトロポリタン美術館に所蔵されています。ピサロは1883年以来、ルーアンを度々訪れており、1898年の訪問は4度目となっていました。ルーアンにはゴシック様式の建物や歴史的な街が並んでおり、ピサロにとって非常に魅力的なモチーフばかりだったのです。

《ルーアンの旧市場とエピスリー街》にはルーアン大聖堂が描かれていますが、これはモネの有名な連作に主題であり、同じ印象派の画家が描くにしても表現が異なることに驚かされます。また近景に描かれているのは毎週金曜日に開かれていた市場の様子であり、楽しげな街の人々の雰囲気が伝わってきます。

《セザンヌの肖像》1874年

(Public Domain/‘Portrait of Paul Cézanne’ by Camille Pissarro. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1874年に制作された作品で、現在はロンドン・ナショナル・ギャラリーに所蔵されています。セザンヌは1870年代初めにルーヴシエンヌでピサロと共に絵画制作を行っており、ピサロはセザンヌを励まし続けた兄のような存在でした。

本作品の右下にはピサロの絵が描かれており、上には政治家のアドルフ・ティエール、右のものは画家のクールベが描かれており、どれもセザンヌの方を向いているように見えます。こうした表現でピサロはセザンヌがこれから偉大な画家になるであろうことを予言しており、それは現実のものとなるのです。

《ルーアンのボワエルデュー橋、雨》1896年

(Public Domain/‘Pont Boieldieu in Rouen, Rainy Weather’ by Camille Pissarro. Image viaWIKIMEDIA COMMONS)

本作品は1896年に制作された作品で、アートギャラリー・オブ・オンタリオに所蔵されています。1896年のルーアン滞在時に描かれたと思われる作品です。1885年に完成した鉄橋ボワエルデュー橋が描かれています。この作品においてピサロは都市の喧騒に焦点を当てており、せわしない工業地区の眺めと時間の動きを見事に描き切っています。

■おわりに

カミーユ・ピサロは1830年にセント・トーマス島に生まれ、印象派とポスト印象派の両方に貢献した画家です。最初はギュスターヴ・クールベや、ジャン=バティスト・カミーユ・コローに影響を受けたものの、54歳で新印象派の表現を追求するなど、新しい表現を学ぶことに抵抗を感じない人物でした。そんなピサロの探求心と温和な人柄があったから、印象派も新印象派も発展することができたのかもしれません。

※本記事はコロナウイルス感染症拡大より以前に執筆・掲載された記事です。

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